【MIRROR】祖父の証言 戦争と慰安婦

testimony of grandfather http://testimony-of-grandfather.webnode.jp/


祖父の証言〜戦争と慰安婦


〜最初に〜


私の祖父は現在94歳で、旧日本陸軍軍曹、戦争で満州パラオ諸島に派遣されていました。自分は昔から祖父から戦争の時の体験談を聞くのが好きで、このたび朝鮮人従軍慰安婦に関する重要な証言を得ることが出来ました


そこで自分のサイトを作り、この体験談を後世に伝えようと思い立った次第です


また、自宅の蔵に当時の資料、写真なども眠っているかもしれませんので見つかり次第、UPする予定でおります


皆様の参考になれば幸いであり、またメールでのご意見・ご感想等、お待ちしております


〜証言〜


俺のじいちゃん、今94歳で、1940年の時に20歳で徴兵されて戦争行った


最初は満州ソ連との国境付近で警備に当ってて、何度か中国兵やソ連兵と武力衝突して戦ったって言ってた。で捕虜にされてシベリアに行った


そこは零下40度の世界で、原住民は横穴を掘ってそこに住んでいたと言っていた


収容所も建物ではなく小高い丘のような所の中腹に掘った横穴で、中は10度くらいで暖かかったと


で太平洋戦争末期、何らかの理由で解放されて、日本に帰れる予定だったのだが、急に太平洋のパラオ諸島アンガウル島パラオ本島)に行かされることになった。そこではアメリカ軍の艦砲射撃やら飛行機による爆撃・機銃掃射などで、あるいはマラリアや栄養失調などで、仲間が大勢死んだと言ってた


パラオ本島ではアメリカ軍は直接人間を上陸させてこず、白兵戦のようなことはほとんどなかったと言っていた。腹が減って畑の作物を無断で食べたら原住民に怒られて、後で金を払い許してもらった、パラオは当時日本の委任統治領だったせいか、原住民は日本人には非常に親切で優しかったと言っていた


そして終戦、収容所生活を経て、1947年に生きて帰ってこれた。生き延びたのは本当に運が良かったと言っていた。で俺は、従軍慰安婦問題について色々と聞いてみた。それは本当にあったことなのか、業者がやっていたのではないのか、ただの売春婦ではないのか、証拠が残っていないのはなぜなのか、等々


するとじいちゃんはこのように証言してくれた


慰安婦強制連行と軍の関与はすべて本当のこと。そして業者ではなく軍が直接やっていた。少なくとも満州で自分が居たところ(チチハル)には業者など居なかった。自分の所属していた宇都宮第59連隊の中に、朝鮮人を連れてくる専門部隊があって、人数は数百人はいたと思う


強制的に、朝鮮人の男はドカタなどの強制労働に、女は慰安婦にさせていた。専門部隊のメンバーは、当時の自分(当時は伍長)よりずっと上の階級の人で、直接話などをしたこともなく、具体的にどこから朝鮮人を連れてきていたのか、などは残念ながら分からない


自分の仕事は、ソ連の戦車を撃つための大砲があって、その大砲を馬が引いていたのだが、その馬の鉄沓(蹄鉄)持ちだった、だから朝鮮人連行部隊とは直接関わりはなかった。朝鮮人は男はドカタとして、女は慰安婦として、第14師団からこき使われていた』


朝鮮人慰安婦は、チチハルだけで200人程度はいたのではないか。チチハル慰安所は、建物(小屋)がいくつも並んでいて、そこに朝鮮人の女が住み込んでおり、日本兵はその小屋の中に入って性の相手をさせた


自分も慰安所を利用したことが幾度もある。それは上からの命令でやっていた。やりたくない者はいいがやりたければタダでやってよかった。自分は金を少しは持っていたので幾らかは女にあげたりもした


ある時建物に入ると、朝鮮人の女の子が出てきて、泣いていた。話を聞くと、戦地看護婦募集というのに応募してきてみたらパンパン屋にされた、との事。お前何歳だ、と聞くと17歳と答えた。自分は彼女に対し、『と言っても日本に逆らったら殺されるんだからしょうがないじゃないか、慰安婦やりなさい』などと教え諭した


女性はみな10代〜20代くらいで、強制的に慰安婦やらされていたものだから皆泣いていた。一番若い女で、大体15〜16歳くらいから連れてこられていた』


『また野戦での慰安所は、登山のキャンプに使うような小型のテントだった。そこには全員朝鮮人を連れて行っており、日本人も中国人もロシア人もいなかった』


慰安婦強制は悪いことだと思わなかったのか?と自分は聞いた


『思わなかった。当時は、武力で相手国を倒して領土と資源を奪うこと、それが大日本帝国のため、お国のため、という考えだった。みんなそうだった。そのために相手国の人間を殺すことは悪いことだと思わなかった。殺人を悪いと思わなかったくらいだから、無理やりもしくは騙して連れてきた女とセックスすることなど悪いとは思わなかった


むしろこの女は日本の兵隊のために役に立っているのだから良いことだと思った。』


(この会話の冒頭、祖父は「悪くねえんだよ!」と一瞬、気色ばんだように答えた。そしてしばらくして「いや、悪いことだわな」と訂正した。当時の考えが頭に残っていて、自分の行為を非難されたように感じたのだと思う)


『それに朝鮮は当時、日本の「属国」だったから、日本人は朝鮮人を一段下に見ていた、というより完全に奴隷扱いだった、だからそういうことをしたんだ。銃を持っている軍人が沢山いたわけだから、慰安婦は逃げ出すことなど出来なかった、見つかれば銃殺されるか連れ戻されるか、実際殺された女も居た


とにかく当時の日本の軍人は、「日本の言うことを聞かないと殺す」という考え方、態度だった


だから、日本は今拉致問題うんぬん言っているが、もともとは日本が朝鮮にそういうことを、いやもっとひどいことをしたんだ


だから慰安婦の強制性と旧日本軍の関与を認めた河野談話は正しい、カイロ宣言にある「奴隷状態ナル朝鮮ノ人々」という表現もその通りだ』


その他、次のような証言をしてくれた


□中国人は、日本軍が近づくと若い女をみんなどこかに隠した(見つかると連れて行かれてしまうから)、だから後に残ってるのは婆さんばかりだった


□自分が駐屯していたのはチチハルの郊外。名前は忘れたがかなり大きな川があって、その近くに駐屯していた。チチハルはかなり大きい町で、現在の宇都宮くらいはあったんじゃないか、祖父の駐屯していたところからチチハルの街中までは数キロだった


チチハルの街中には日本人女性も自分で慰安所を経営してる人がいて、自分はそういう所にも遊びに行った


慰安所があったのはチチハルでの話で、シベリアやパラオには無かった


朝鮮人慰安婦=性奴隷という表現はその通りだ。そういう扱いだった


チチハル郊外には、中国人の「匪賊」と呼ばれる人たちが居て、彼らは普段は農業をやっているが時には武装して日本兵を攻撃したり中国人を襲って略奪などをやっていた


奉天あたりまでは戦争の痕跡はなかったが、チチハルでは郊外に満州事変の時の戦闘の痕跡が残っていた


チチハルの住民は当然中国人で、当時は日本が満州を統治していたが、自分が行った時は反日・抗日運動などは無かった(※現在でもチチハル宇都宮市は友好都市関係にある。wiki参照)


□地元の知人がシベリアからパラオに行くとき、自分とは別の船に乗ったが、その人の船は台湾沖でアメリカ軍の魚雷攻撃を受けて沈没した、当然その人も死んだ。自分はかなり遠回りな航路の船に乗ったので助かった、これも運が良かった


《その他、Q&A》


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