1965-01-01から1年間の記事一覧

【出典】書誌情報

占領支配揺さぶる首席公選のたたかい

沖縄県民はサンフランシスコ条約発効以来,一貫して首席公選を要求したたかいつづけてきましたが,ワトソン高等弁務官は昨年10月29日から31日にわたっての立法院臨時会で,県民の強い反対を無視し,新しい傀儡松岡政保の首席指名を強行させました. 県民の意思を…

アイゼンハワーにたいする銃剣下の抗議

1960年6月19日,米大統領アイゼンハワーは極東訪問の途中,沖縄に立ち寄りました そのアイゼンハワーの沖縄到着のさい,沖縄でかれをむかえたのは星条旗でも歓声でもなく,祖国復帰と米軍占領反対,サンフランシスコ条約第3条撤廃をさけぶ沖縄県民の赤旗だったの…

プライス勧告反対闘争と瀬長市長の出現

1956年6月,アメリカ帝国主義のその後の沖縄基地建設の基本を示したプライス勧告が発表されました. これは沖縄の公然たる核武装化を目的としたもので,そのための全県下,とくに沖縄本島での土地の大規模接収をうたったものです. この勧告が発表されると同時に,…

基地労働者のストライキ - 労働三法の獲得

サンフランシスコ条約の発効(1952/4/28)は沖縄・奄美の労働者のたたかいに新しい転機をもたらしました. そのなかで,1952年6月,米軍の基地建設に従事していた日本道路の労働者は,労働条件の改善を叫んでストライキに立ち上がりました. このストライキは占領下…

復帰運動の発足

1950年はじめ,対日講和条約問題が日程にのぼり,ダレス国務長官が日本にやってきてマッカーサーなどと協議を重ねました. これを機に沖縄,奄美大島では祖国復帰の世論が急速に高まってきました. 翌51年はじめ,対日講和にたいする英米草案が発表され,そのなかで…

収容所からの解放と食糧闘争

1945年6月22日,沖縄全土を占領したアメリカ軍は,すべての沖縄県民を各地の収容所に強制的に収容しました. 日本政府が無条件降伏をした同じ年の8月15日が過ぎてようやく段々に解放して部落に帰しましたが,戦災で生産手段のすべてを失った沖縄県民は部落に帰っ…

(まえがき)

沖縄に対する事実上の永久占領を取り決めたサンフランシスコ「平和」条約発効の民族的屈辱の日4月28日を中心に,ここ数年来本土と沖縄の人民はかたく団結して「沖縄かえせ,アメリカかえれ」の行動を高めてきましたが,ことしは1月15日から4月28日をはさんで6月…

『アカハタ』1965/01/14(4面)「写真特集 米占領20年 屈辱から立ち上がる沖縄県民」写真を読む

■【(1)首席公選要求,米専制支配粉砕のため決起した労働者,農民(1964/6/26). 米側は「沖縄での自治権は神話にすぎない」と公言しましたが,首席公選をめざすたたかいは奪われた民族主権の回復の闘争として次第に高まっています】旗【□□学生自治会】等(座り込ん…

■日本共産党中央委員会『アカハタ』1965/01/14(4面)「写真特集 米占領20年 屈辱から立ち上がる沖縄県民」

写真総数: 6点 復帰運動を撮影: 6 ●日章旗の写真数: 0