4. (野原さんの指摘http://twtr.jp/noharra/status/528810723460124672を疑問形にして)ロハの慰安所があったのか?


【4】


朝鮮人慰安婦は、斎斎哈爾だけで200人程度はいたのではないか。斎斎哈爾の慰安所は、建物(小屋)がいくつも並んでいて、そこに朝鮮人の女が住み込んでおり、日本兵はその小屋の中に入って性の相手をさせた


自分も慰安所を利用したことが幾度もある。それは上からの命令でやっていた。やりたくない者はいいがやりたければタダでやってよかった。自分は金を少しは持っていたので幾らかは女にあげたりもした【祖父の証言】


以下は2014/11/22追記しました


1938年上海の軍慰安所利用規定はhttp://d.hatena.ne.jp/dempax/00000914


…上海軍工路近くの楊家宅に軍直轄の慰安所が整然とした民営アパートの形式で完成した. その慰安所規定…


慰安所規定


*本慰安所には陸軍々人軍属(軍夫を除く)の外入場を許さす. 入場者は慰安所外出証を所持すること


*入場者は必ず受付において料金を支払ひ之と引替に入場券及「サツク」一個を受取ること


*入場券の料金左の如し


下士官・兵,軍属金貮圓


*入場券の効力は当日限りとし若し入室せざるときは現金と引替をなすものとす 但し一旦酌婦に渡したるものは返戻せす

*入場券を買ひ求めたる者は指定せられたる番號の室に入ること但し時間は30分とす


*入室と同時に入場券を酌婦に渡すこと


*室内に於ては飲酒を禁す


*用済みの上は直に退室すること


*規定を守らさる者及軍紀風紀を紊す者は退場せしむ


*「サツク」を使用せざる者は接婦を禁す


[略]


兵站司令部

「只の慰安所」の直接の説明ではないが「祖父の証言」11/21更新分に部隊長が部下を引率して慰安所へでかけるという証言がある. 慰安所が軍隊の中で部下の教育=帝国陸軍兵士を鍛えるOJT(On Job Training)の場でもあったことを意味しているのではないだろうか?(初年兵に中国人捕虜を刺殺・斬殺させ「中国人殺し」を平気で出来るように鍛えると同様に)


【11/21更新分からの引用】


A、当時は1ヶ月分の給料は約2百円だった。現在のお金で言うと2〜3万くらいじゃないか?


それを全部、慰安婦にあげたりした


Q、全部あげた?他に給料の使い道はなかったのか


A、なかった。食事は配給だったし、服や装備品も配給、寝る所は兵士宿舎、酒(チャンチーという、こうりゃんで作った酒)もタバコ(ほまれという銘柄)も配給だった


チチハルには飲み屋もあって、行ったりはしたが…


でも基本的に、月二百円で足りた。全額慰安婦にあげたりした


Q、それでは、朝鮮人慰安婦は結果的に大金持ちになったのではないか


A、そうかもしれないな。しかし、タダで遊んでも良かったんだ


Q、慰安所に行く時はどのようにして行ったのか?


A、慰安所に初めて行ったのは、自分がチチハルに着いてからすぐのこと


中隊長や小隊長など、上の人が兵隊を集め、みんなでまとまって行った


行ったのは毎週日曜の、野戦が休みの時など。月2〜3回行った


慰安所に着くと、隊長が、「お前はこの部屋に行け、お前はここだ」などと割り振りを決めた


Q、それでは、兵隊一人一人が勝手に行けて、自由に女を選べるとか、そういうシステムではなかった?


A、そうではなかった。上の人に引率されて行ったんだ。女も自由に選べたわけではない


Q、チチハルで、日曜日以外は何をやっていたのか


A、「匪賊」の討伐。つまり治安維持


匪賊を討伐して治安が良くなったので、中国人を殺すなという通達が出た


しかし実際に殺しても罪に問われなかった


匪賊が居て危険なため、全体的に個人行動はできなかった

赤字強調箇所は「タダで」と関係しているのだろう,例えば次のふたつの可能性を思い付く


(A)引率の部隊長が「慰安所利用券」を購入し,初年兵の支払分を負担した


(B)軍隊教育の規程として,此の場合は利用券は必要なかった


(B)の場合は軍慰安所就業婦の受け取るものがない=証言から(B)のように読むのは早すぎるか


(2014/11/22追記おわり)