【チチハル以外の「慰安所」は知らない=無かった】証言は矛盾するのか?


チチハルから移駐した先のハンダガヤについての証言を拾ってみると…【C:チチハル以外の「慰安所」は知らない=無かった】はどう読めばいいのだろうか?


【A1】


それから名前は忘れたが大きな川のほとりに行って駐屯していた(慰安婦で女遊びをしていたのはこの時期のこと)


【A2】


Q、何人くらいの女と遊んだのか


A、10人〜20人くらい。


【B】


また野戦での慰安所は、登山のキャンプに使うような小型のテントだった。そこには全員朝鮮人を連れて行っており、日本人も中国人もロシア人もいなかった


【C】


慰安所があったのはチチハルでの話で、シベリアやパラオには無かった


【C'】


Q、チチハル以外の満州の諸都市にも慰安所はあったのか


A、自分は日本を離れ、大連から奉天、そしてチチハルに行った。大連や奉天にはあまり駐屯していなかったので分からない。しかし、チチハルにあったくらいだから、ハルピンなど大きな都市にはもっとあったのではないか?

【C:「慰安所」が無かった】は【木造建築の日本軍「慰安所」建物が無かった】と読むべきだろう.


【A】【B】が述べる通りハンダガヤから国境にかけての【野戦】地域にも【テント】の【慰安婦】はいたのだから日本軍「慰安所」はあったのだ[*1]



*1:ノモンハン前線天幕の日本軍「慰安所」については小林英夫『ノモンハン事件機密文書「検閲月報」が明かす虚実』平凡社新書493,2009/08/15 p.212 ⇒id:dempax:20141107 参照

ノモンハン事件―機密文書「検閲月報」が明かす虚実 (平凡社新書)