シベリア抑留について【「祖父の戦争」2014/11月版から抜粋】


昨年11月のテキスト【id:dempax:19441102】から関連箇所を拾っておこう


俺のじいちゃん、今94歳で、1940年の時に20歳で徴兵されて戦争行った


最初は満州のソ連との国境付近で警備に当ってて、何度か中国兵やソ連兵と武力衝突して戦ったって言ってた。で捕虜にされてシベリアに行った


そこは零下40度の世界で、原住民は横穴を掘ってそこに住んでいたと言っていた


収容所も建物ではなく小高い丘のような所の中腹に掘った横穴で、中は10度くらいで暖かかったと


で太平洋戦争末期、何らかの理由で解放されて、日本に帰れる予定だったのだが、急に太平洋のパラオ諸島(アンガウル島・パラオ本島)に行かされることになった


【中略】


Q、日本とソ連は終戦間際まで不可侵協定を結んで戦ってないのに何故捕虜になったのか?また、なぜ解放されたのか?


A、自分のいた歩兵59連隊はまず1940年にチチハルに行って、「匪賊」の討伐をした。それから名前は忘れたが大きな川のほとりに行って駐屯していた(慰安婦で女遊びをしていたのはこの時期のこと)。そこにソ連軍が攻め込んできて、捕まってシベリアに連れて行かれた。59連隊の中でだいたい500〜600人程度捕まったのではないか。それは日ソ中立条約(1941年4月締結)の前の話で、シベリアには3〜4年居た。解放された理由は忘れてしまって思い出せない。


【中略】


Q、シベリアで何をして暮らしていたか?


A、ソ連軍の戦車や兵器を入れておくための壕(横穴)を掘ったりしていた。つまり強制労働。ロシア人の言うことを聞くしかなかった。横穴の収容所の中での暮らしは原始時代のような暮らしだった。


Q、何人くらいの女と遊んだのか


A、10人〜20人くらい。