1989-01-01から1年間の記事一覧

獄中面会で晴れた疑い 佐藤ひさよ『私たちの松川事件』p.102 - p.103

あれは昭和26年(1951年)11月だったと思います. 家庭に閉じこもっていた私が宮城厚生協会大仏前幼稚園に勤め始めた頃,一緒に働いていた小野寺きくさん(今は故人となりました)が「ぜひ聞いてもらいたい大事なことがあるから」と誘われてついて行ったのは仙台駅…

第一回母親大会で松川決議を行ったとき 小野寺きく『私たちの松川事件』p.137 - p.140

1955年6月7日,第一回母親大会の第一日目が終了し,薄暮がたちこめた頃,私は宮城県代表団17名の一人として同行の阿部和子さんと原宿の宿舎へ向かっていた その日の会議のあれこれを思い出して興奮していた. 涙に声をつまらして訴いる炭鉱の主婦,ビキニの死の灰…

獄中面会で晴れた疑い 佐藤ひさよ『私たちの松川事件』p.102 - p.103

あれは昭和26年(1951年)11月だったと思います. 家庭に閉じこもっていた私が宮城厚生協会大仏前幼稚園に勤め始めた頃,一緒に働いていた小野寺きくさん(今は故人となりました)が「ぜひ聞いてもらいたい大事なことがあるから」と誘われてついて行ったのは仙台駅…

全日自労のお母さんたち 阿部和子『私たちの松川事件』p.100 - p.102

昭和25年(1950年)12月,全員有罪の判決をうけた松川の20人の被告が仙台高裁に控訴して,宮城拘置所に送られてきました 当時は,まだほとんどの労働組合も事件の真実がつかめず,救援のとりくみもみられなかったし,世論は冷たいものがありました その頃,私たちは…

佐藤一『被告』を読んで 安積嘉代『私たちの松川事件』p.168 - p.170

たしか昭和35年(1960年)のお正月のこと,被告と家族を激励する「松川新年会」が仙台市労働会館の一室で開かれました 私はまだそれほど松川に馴染んでいなかったので,職場の石川さんに誘われるままにお客のようなつもりで参加しました. 保釈中の佐藤一さん,二…

仙台第17松川守る会のこと 石川利夫『私たちの松川事件』p.166 - p.168

昭和32年(1957年)8月,私は仙台へ転勤しました. 前任地の宮崎支所(農林中金)にいた頃,宮城拘置所に在獄の被告に手紙を出し,二階堂武夫被告からいただいた訴えの手紙を組合の機関紙に掲載し,松川事件について組合員の関心を高め,認識を深めようと努力したこと…

七・五・三の日の恵美ちゃん 牧野勢喜『私たちの松川事件』p.127 - p.129

昭和29年(1954年)11月15日の日. 木枯しが吹いてうそ寒いおひる頃,東三番丁の松川の事務所の前の道路にぽつねんと立っている女の子がおりました それは高橋晴雄被告の一人娘恵美ちゃんの姿でした. まだお父さんは獄中にいました 遠くからそれが恵美ちゃんだと…

出典

亀井文夫/構成編集 谷川義雄『たたかう映画 ドキュメンタリストの昭和史』岩波新書 新赤82, 1989/08/21 ISBN9784-0043-0082-3 岩波DVD『日本のドキュメンタリ 政治・社会編(1)』disk3 ISBN9784-0013-0181-6

佐藤一『被告』を読んで 安積嘉代

たしか昭和35年(1960年)のお正月のこと,被告と家族を激励する「松川新年会」が仙台市労働会館の一室で開かれました 私はまだそれほど松川に馴染んでいなかったので,職場の石川さんに誘われるままにお客のようなつもりで参加しました. 保釈中の佐藤一さん,二…