全日自労のお母さんたち 阿部和子『私たちの松川事件』p.100 - p.102

昭和25年(1950年)12月,全員有罪の判決をうけた松川の20人の被告が仙台高裁に控訴して,宮城拘置所に送られてきました


当時は,まだほとんどの労働組合も事件の真実がつかめず,救援のとりくみもみられなかったし,世論は冷たいものがありました


その頃,私たちは私たちが保母として働いていた宮城野原保育所(全日自労の託児所)の昼休みに,毎日のようにお母さん達に松川の話をして署名とカンパを訴えました


自分達も大部分が戦争未亡人や戦争の被害者であるお母さん達は,酷い労働と苦しい生活の話を出しあったりしていましたが,そのなかでこちらが訴える松川の話をしんみりとよく聞いてくれ「それは大変なことだ. 気の毒なことだ」とわかってくれ,そのうち「松川の被告に激励の手紙を出そう」と被告との文通が始まりました


そして翌年のお正月には差入れと面会をするようになりました. 差入れは甘い物がよいということになって,当時はまだ物が不足していたのですが,お母さん達は物を持ち寄っておはぎをつくり,重箱一杯に詰めて,拘置所に面会に行きました


被告の人達が殊更に喜んでくれたのを覚えています. 本田昇さんは病舎にいましたが,私たちはそこへも会いに行くことが出来ました. あとで,そのなかのお母さんの一人が「あんないい若者はめったにいない. 一日も早く無実が明らかになって出てきたら,おらの娘の婿にしたい位だ」と話していました


その翌年の5月12日,被告のなかで一番最初に保釈出所した二階堂園子さんを保育所に迎えての懇談会の時などは,お母さん達は自分の娘が戻ってきたような喜びようでした. その後も,ずっと宮城野原保育所のお母さん達と被告達の文通・面会等はつづきました


面会の度毎にお母さん達は乏しい収入(日給は160円ぐらいだった)のなかから5円,10円とカンパして差入物を購入し「今日は息子に面会に行くんだ」と喜んで出かける代表を拍手で送り出しました


それだけに昭和28年(1953年)12月22日の二審判決日には,今日こそ全員が無罪判決となって帰ってくるんだと,全日自労では大勢の仲間が仕事を休んで裁判所前につめかけました. あんな酷い判決 お母さんたちは血の涙を流しました


無罪判決が出るまでその後の10年間の闘い,全日自労の仲間の先頭に立って闘ってくれたのはそのお母さん達でした


(あべかずこ 当時,乳銀杏保育園園長 現・療養中 仙台市在住 76歳)