第一回母親大会で松川決議を行ったとき 小野寺きく『私たちの松川事件』p.137 - p.140

1955年6月7日,第一回母親大会の第一日目が終了し,薄暮がたちこめた頃,私は宮城県代表団17名の一人として同行の阿部和子さんと原宿の宿舎へ向かっていた


その日の会議のあれこれを思い出して興奮していた. 涙に声をつまらして訴いる炭鉱の主婦,ビキニの死の灰で夫を失った久保山さんや長崎の原爆被災者の怒りの声. 私は考えながら原宿駅に近づいた時,轟々と驀進してくる国電をみた


その時急に,松川事件被告の鈴木さん,杉浦さん,本田さんの顔がぱっとひらめいた


「そうだ. 松川事件を母親大会で訴えよう. 今日の報告には涙をそそるもの,つらいこと,悲しいことがたくさんあった. しかし私達はともになぐさめ,激励し,力を合わせることが出来る


だが松川の人達は二度も死刑の判決を受けているのだ. その人達の母,妻,子供たちの苦しみは私達よりも何倍も何十倍も酷いのだ. 松川の不当判決を撤回させること,母親の団結の力で救援すること,これは私たちの義務ではないか」


翌日,私は日本国民救援会中央本部との電話連絡をとって保釈中の被告二階堂園子さんに大会三日目の会場に来て貰うことにした


三日目の日本青年会館は2500人のお母さん達でぎっちり埋められていた. 午後3時閉会の予定だが発言を求めるたくさんの代表で一時議場が混乱した. 代表のお母さん達は心が焼けるほど訴えたい物があるのだ. 結局,発言したい人は順番に並んで立った. その列は演壇のそばから会場入口にまで続いた


すでに午前中には13の決議が発表されていた. だが松川事件はその中に入っていなかった. 私はがっかりした. どの分科会でも提案されなかったらしい


そうだ園ちゃんが来ているはずだ. 全体会議で訴えさせよう. 私は仙台から一緒に来ていた鈴木満寿子さんに


「入口で見張ってつかまえて頂戴」


と頼んだ. 園ちゃんは保釈後仙台を何回もオルグしていたから顔はみんな知っていた


はたして,彼女は三鷹事件被告であった横谷さんと結婚して二人の間にもうけた生後ヵ月の赤ちゃんを抱いて入口に立っていた. 赤ちゃんは,大会が設営した託児所に預けられ,彼女は発言を求めるお母さん達に続いて列に並んだ. ずいぶんと後の方だ. 私はやきもきした. この調子では今日の間に合うどころではなかった. 議長が「これでは何日かかってもお母さん達の話はつきませんから関連した話を御願いします」と注意するほどだった



私は満寿子さんに大声で「前に,前に」と叫んだ. 満寿子さんは園ちゃんに近づいて「もっと強くなって前に進みなさい. 無実の人を死刑にさせないために」と激励した. そして彼女の前に立っているお母さん達に


「この方は松川の被告です. 松川事件を御存知でしょ」


「松川って,何ですか」


という人もあったが,鈴木さんは遠慮しなかった


「どうしてもこの方に発言して戴きたいのです. ごめんしてください」


と会釈しながら園子ちゃんを前へ前へと進ませた. 私は


「園ちゃん,必ず発言をとりなさい. 手をあげていなさいよ」


と元気づけた. 彼女はついに5番目くらいに近づいた. 私はほっとした. あとは議長の指名を待つばかりついに議長は手をあげつづけている彼女に気がついた


「その方がさっきから手をあげつづけていますから,その方の発言で最後にいたします」


議長の発言は会場に喧騒をまきおこした. 議長交替ということになって羽仁説子さんから丸岡秀子さんに代わった. 園子ちゃんは演壇の下に進んでマイクを手にとることが出来た


「私は松川事件被告の二階堂園子でございます」


その時満場がしーんと静まった. まったく水を打ったようだった. 満場の視線が彼女の白いブラウス姿にすいつけられた. 私と鈴木さんはへたへたと椅子に座りこんでしまった.


「私は生後9ヵ月の子供を背負って松川の暗黒裁判反対のために闘っています私の年老いた両親は病気です……」


私はじれったくなった. 時間がないというのに,はやく話の本筋に入ればいいのに. 私は思わず立ち上がって叫んだ


「子供のこと,じじばばのことなんか,後廻し. 自分のこと無実の罪で死刑にされる人のことを話せ不当判決撤回の決議をして貰いなさい」


彼女はわかったようで話を本筋にすすめた. 私はあとはなんだか分からなかった


丸岡議長の


「分かりました」


という言葉が耳に入った. 議長はつづけて


「議長から,皆さんにかいつまんでお話しします. 日本はおろか世界中の人が強い関心をもっている事件です. 松川事件不当判決撤回を世界の母親に訴えてください,ということです. すでに13項目の決議は出たのですが,14番目に松川事件の決議をしてよろしうございますか」


私は間髪を入れずに大声で叫んだ


「お願いします」


宮城県代表団の人全部が立ち上がって「お願いします」と頭を下げた


私はこの時のこの「お願いします」という言葉の有り難さと尊さを身にしみて感じたことはなかった


「賛成」「異議なし」わーっという喚声と拍手. 満場一致で松川が決議された. 私と園子ちゃん満寿子さんの3人は手を握りしめていた園子ちゃんの目に涙私も満寿子さんも感動で泣いていた


(おのでらきく 当時・仙台乳銀杏保育園保母 1959年11月22日死去 51歳)