仙台第17松川守る会のこと 石川利夫『私たちの松川事件』p.166 - p.168


昭和32年(1957年)8月,私は仙台へ転勤しました. 前任地の宮崎支所(農林中金)にいた頃,宮城拘置所に在獄の被告に手紙を出し,二階堂武夫被告からいただいた訴えの手紙を組合の機関紙に掲載し,松川事件について組合員の関心を高め,認識を深めようと努力したことがありました


そこで仙台支所へ転勤したとき,組合は地区労とか全銀連などの上部団体と一切関わりのない企業内組合でしたが,地元の宮城拘置所に被告が在監しているのですから,私たちの職場にも松川に関心をもっている者が何人かはいるのではないかと期待していましたが,そのような動きは見えませんでした


しかし,同じ職場にいた牧野勢喜さんが,その頃ある民事の問題である人の紹介を受けて日本国民救援会宮城県本部へ法律相談に行ったことがありました. 私たちの職場とは目と鼻のすぐ近くにあった国民救援会には東北松川対策協議会の事務所も置かれていました. そうしたことから松川に関心を持ち始めた牧野さんを通じて私は東北松川対策協議会を知るようになり,松対協の小田島さんたちと話を交わすようになりました


33年(1958年)8月の「松川救援国際行動デー」の集会が労働会館で開かれた時,何人か職場から誘って参加したのですが,この集会で運動を強化するため職場・地域に「松川守る会をつくろう」という呼びかけがされました


その翌日の昼休みに,集会に参加した幾人かで感想を話し合った時,朝倉敬二さん(現在弁護士)が私たちの職場にも守る会をつくろうと提案,すんなりと受け入れられて「松川守る会」がつくられました


守る会の名称に,農林中央金庫という職場名をつけることは,憚られる気持ちがあって「仙台第17松川守る会」ということにしました. 仙台で第17番目に誕生したからということからでした


活動が活発になったのは,守る会結成後まもなく最高裁の口答弁論開始を前にした33年(1958)10月の仙台東京間の松川大行進に「守る会」から女性の安積さん,武田(現朝倉)さんと,武田さんの学友伊藤さんの3人が参加してからでしょうか. 3人とも,もちろん休暇をとっての参加でした


それからはいろんな集会や現地調査に,あるいは獄中被告との面会や定期カンパなど,いろいろな活動が始まりました. 60名たらずの職場に10数人の会員ができました. しかし職場での守る会活動には障害がないわけではありませんでした


「守る会」ができた頃は,私は組合の支部長になっていて,就業時間後会議室で松川の記録映画『9年の歳月はかえらない』の上映を組合支部主催ですることが出来ましたが,二度目の行事で二宮豊被告との懇談会を計画した時は,うまくいきませんでした


案内の掲示をみた管理職から「列車転覆事件の犯人とされている人をよぶような集りに会場は貸せない」と間際になって拒否されました. 急きょ会場を外に移して開くことが出来ましたが,その後「守る会員の名簿を出せ」と迫られ,それを断ったこともありました


そんな状態の職場ではありましたが,組合の創立記念日(12月)には青年婦人部が中心になって,写真展示や松川のシュプレヒコール『真実の勝利のために』を上演したりしましたが,この時には特に管理職からの干渉はなかったように記憶しています


仙台支部の「守る会」の活動は,職場のなかで組合員の理解をいくらかでも深め,組合の全国大会でも松川の被告を招いてその訴えをきき,支援決議をすることの出来る力ともなりました. 折から60年安保闘争を目前にした時期で,組合全国大会で安保と松川と二つの決議がされたのでした


仙台守る会連絡協議会が,松対協の財政強化のために「月給日の端数カンパ」を呼び掛けた時,真っ先にこれを実践したのは私たちの第17守る会で,当時の松川通信に紹介されました. 第1回の取り組みには726円が集まり,みんなびっくりしたものでした. この端数カンパはやがて定期カンパへと発展し,無罪確定まで続いたということです


私は35年(1960)2月に名古屋支所に転勤になり,名古屋でも松川運動に参加,「なごや松川守る会」副会長に推されましたが, 8・8差戻し審無罪判決があった時の感激はひとしおでした. 職場の私のところにも次々と友人から祝いの電話が入りました. その夜名古屋でも4000名近く集った祝賀大会が鶴舞公園であり,大会後の祝賀ちょうちんデモにも参加しました. 沿道の人にちらしを配った私は,寿司屋の勝手口では,石鹸だらけの手で「おめでとう」と握手されたりもしました


そのあとすぐ仙台の真壁さんから「祝松川全員無罪判決,お蔭様で私も第17守る会の一員としてこの日の喜びを分けていただくことが出来ました 8月8日」という喜びにあふれる便りが届きました. 一所懸命取り組んだ仙台の仲間たちみんなが同じ喜びに満たされたのだと思いました


この松川運動が,このあと仁保[にほ][*1],白鳥[しらとり],江津[ごうつ],……と各事件の救援に関わっていく私の方向を決めた出発点ともなったのでした


(いしかわとしお 当時,農林中央金庫仙台支店勤務 現・救援会員・年金生活,横浜市在住 65歳)



私たちの松川事件/農林中央金庫仙台支所関連(2/E)⇒id:dempax:19890826




*1:仁保事件については 播磨信義『仁保事件救援運動史/命と人権はいかにして守られたか』日本評論社,1992/09/10を参照して下さい
仁保事件救援運動史―命と人権はいかにして守られたか (神戸学院大学法学研究叢書)