七・五・三の日の恵美ちゃん 牧野勢喜『私たちの松川事件』p.127 - p.129
昭和29年(1954年)11月15日の日. 木枯しが吹いてうそ寒いおひる頃,東三番丁の松川の事務所の前の道路にぽつねんと立っている女の子がおりました
それは高橋晴雄被告の一人娘恵美ちゃんの姿でした. まだお父さんは獄中にいました
遠くからそれが恵美ちゃんだとわかった私は,彼女が何を見ているのかとみると,彼女の前を綺麗な着物を着て美しいリボンを髪に飾って,大きな千歳飴の袋を持った女の子が母親に手を引かれて歩いて行く姿を見ていたのでした
恵美ちゃんは当時6歳,母親の貴枝子さんは夫の無実を晴らす活動に参加するために,二審判決後に米沢の実家から仙台に移り,松川事務所の中の三畳の狭い部屋に母子で起居していたのです
当時,私は農林中央金庫仙台支店の職員で,すぐ近い松川の事務所に毎日のように「アカハタ」をとりに行っていましたから,事務所の皆さん,高橋さん母子と仲良しになっていました
恵美ちゃんは,その着飾った母子が道路をまがって姿が見えなくなるまで,じっとそこに立っていました. そして事務所の中に入って行きました. その後ろ姿の淋しそうなこと,恵美ちゃんの目には自分と同じ位の着飾った女の子をどんな思いで見ていたのでしょうか
私はお菓子を買って持ってきて良かったと思いました. 事務所に入るとみんな出払っていて一人の姿もなく,ひとり恵美ちゃんだけが椅子に腰をかけていました. 机の上には書きかけの1枚のクレヨン画がありました
「恵美ちゃん,ひとりでお留守番しているの,偉いわね,はい,お菓子ですよ」
と言うと彼女の顔から淋しそうな影が消え,にっこりしてくれました
当時,松川の運動は第二審判決後一時は暗い谷間に落ち込んでいて,労働組合などの組織的支援は少なく,保釈出所した被告,その家族,松川事件対策協議会の人たちの必死の活動が続き,皆さんはえらく苦労していたようでした
高橋被告の奥さんは【明日のお米どうしようか】など苦しい生活の中で,それでも笑顔をいつでも見せていました. また事務所の電話料の支払いが出来なくて,被告に差入れられたカンパの一部を事務所に渡してくれたという話を,小田島さんから聞いたのもその頃でした
高橋さんの奥さんからはよく話を聞きました
「うちの父ちゃんは事件の夜は私と一緒に寝ていた. 恵美子は生まれてすぐだったから,夜中に何回もおしめを替えるので起きたが,父ちゃんは朝まで寝ていたのに,その父ちゃんが列車転覆に行ったなんて. 私の証言は家族だから信用しないと言うんです. くやしくて,くやしくて」
恵美ちゃんの髪を撫でながら話す奥さんの言葉に,貰い泣きしたのは何度あったことか
こうしたなかで昭和32年(1957年)になって私の職場のなかにも宮崎から転勤してきた石川利夫さんが中心となって,松川守る会が生まれました. 私は現地調査に三回参加し,時間があると松川事務所に通ってお手伝いさせていただきました
事務所の皆さん,事務所に出入りする方達は,恵美ちゃんをよく面倒みてくれました. 事務所の近くにある朝市場のお菓子問屋の柳田貞さん御夫妻にはずいぶん可愛がられていたようでした
昭和33年(1958年)12月23日,待ち望んでいた高橋晴雄さんが10年ぶりで保釈出所しました. 私も皆さんと一緒に拘置所まで出迎えに行きました. そして松川事務所の隣の東北外語学校の教室を借りて歓迎祝賀会がひらかれました. これで親子3人水入らずの生活が出来る. といってもこれから最高裁の上告審,そして晴れて無罪判決をかちとるまでには,まだまだ多くの苦労が待っているのだと思って
「がんばれ,貴枝ちゃん,がんばれ,恵美ちゃん」
と叫んでしまいました