ビルマラングーンの「慰安所」情報

『改定縮刷決定版 大東亜戦争秘史●マレー/ビルマ編』(富士書苑 1954/07/25発行)p.239-p.256讀賣新聞社記事審査部主査 若林政夫「イラワジ戦記」より抜粋引用

新戦場 [省略]


夜空を焦す火焔 [省略]


砂漠を征く牛車部隊 [省略]


イェナンジョンの激闘 [省略]


荒廃の街に [省略]


マンダレー行き [省略]


高原抒情 [省略]


両棲動物 [省略]


和製インボーデン [省略]


星と錨の旦那たち


三ヵ月ぶりでラングーンに帰った僕はその復興ぶりにまず驚いたが,同時にラングーンは印度人の街であり,ビルマ人の街でないことを発見して二度驚いた.


印度人の生活力の旺盛さは華僑を凌ぐくらいだ. ラングーンの目抜通りを歩くと,めぼしい商店や気の利いた飲食店はどれもこれも印度人か中国人経営でビルマ人経営なんか一軒もなかった.


三度びっくりしたことは陸海競って専用料亭を持ち,日とともに日本の女の子が殖え[引用者注:原文ママ],いやな言葉だがいわゆる慰安所という,お女郎屋が雨後の筍のようにニョキニョキ出来てゆくことだった.


そのお頭は,なんといっても陸軍の星の旦那方が御専用の粋香園に止めをさす.


こいつがラングーンに進出したことについてはこんなことが,まことしやかにいわれていた.


粋香園というのはかつての軍都久留米の料理屋で,例の割腹自殺をした杉山元帥が久留米の師団長時代にごひいきにしていた家だとかで,大の客筋の師団はなくなる,統制統制でにっちもさっちもゆかなくなって,廃業の御挨拶におやじが元帥邸に伺候したところまあもう少し待て,俺が,いい口をさがしてやるということになった. それから間もなく戦争がはじまる,直ぐ上京せよということで,お前ラングーンに行けということになったのだと. ありそうなことだ.


それはともかくとして,ラングーン一流のクラブをいただいて,そこに陣取ったこの一隊は総勢150名になんなんとする大部隊で,芸妓,半玉はもとより女中,下働き,料理番. これまではわかるがあとが凄い. 髪結いさんに三味線屋,鳴り物屋,仕立屋に洗張屋にお医者さんまで,これが婦人科兼泌尿器科医であることはもちろんのこと,それに青畳,座布団,屏風,障子,会席膳一式まで海路はるばる監視哨つきの御用船で,つつがなくラングーンに御到着になったのだ.


湿気の多いビルマでは三味線や太鼓も鼓も,こわれやすいし,御相手がお相手で,相当の破損を覚悟してのことと,ビルマではおべべも汗まみれになるというので仕立屋さんや洗張屋さんの配属となったもの. それでも輜重行李から,衛生隊まで引きつれての進撃ぶりは大したものだ. それだけに,お値段も滅法おたかく相手にもしてくれなかったが,何もかも留守宅送金の僕等軍属どもには無用の長物,高嶺の花だった.


灯ともしごろともなれば,青,赤,黄の小旗のついたトヨタさんが門前に並んで,椰子の樹蔭から粋な音じめがもれて来るという始末で,チークの床に青畳を敷きつめた宴会場では明石か絽縮緬[ちりめん]の単衣かなにかをお召しになった久留米芸妓のお座付から始まって,あとは例によって例の放歌乱舞が日毎夜毎の盛宴に明け暮れていた.


S奴姐さんはX参謀,M丸さんはY隊長という具合で僕ら軍属や,民間人はとても姐さん方に拝謁を得るのは難事中の難事だった.


安い方の食堂であやしげなおすしの皮剥ぎをやりながら,何のことはない,下手なラジオをききながら一杯やっているようなもので,奥座敷からさかんにきこえる嬌声に指をくわえ,膝を抱えて,

    「馬鹿にしてやがる! 戦地だぞ」

なんて,はかない正義感に鬱憤をもらしながらビルマ女のお酌で防腐剤入りの日本酒でテーブルをたたいてトラになるのがせいぜいだった.


海軍の錨旦那方はバンドの川っぺりにこれは基隆[キールン]仕立の遥地亭という,いとも小じんまりしたやつを,御設営になって,しんみりとチンカモでやっていた.


大衆的なのは白木屋が陥落と同時に開いた食堂だ. ここにはあの僕らを苦しめた印度支那山脈を,自動車路の完成と同時にいちばん乗りしてきた女性としての山越え第一号のM子さんがいた.


若い将校どもは肉感的な彼女に,われこそは,われこそはと名乗りをあげていた.


その他,アリラン,パーマ,インド支那仕立と,金と暇さえあれば,お好み次第. 上下の別はあっても,勝った,勝ったで,あの悲惨な敗退なんか誰も考えず,酒と女に憂身をやつしていた型だった. 東条勝子夫人がM検を提唱したのもあながち怒れないし,笑えないような始末だった.


僕らが帰えるころからますますさかんになって行った,こうした方面の女性が,あの敗走時,どういう運命におかれただろうか,それを考えるとぞっとする.


いまは輝く清水幾太郎教授も僕らの仲間の一人で,左巻きのM参謀によく訳のわからぬ哲学論争を吹かけられてへきえきしていたし,次期作戦までの中だるみのラングーンはとにかく,やっさもっさてんやわんやの騒ぎだった.


その中でひとり寂しく憂悶の日々を送っていたのはお人好しでスタイリストの僕らのパコダ班長だった.


班が部に昇格したのはよかったが,彼は昇任しなかった.


後輩の那須参謀副長が部長になって乗り込んで来てからは,お得意の対敵宣伝にも身が入らず,僕らが内地に帰って間もなく,郡山連隊の連隊付中佐に追いやられてしまった. その代り命も助ったし,戦犯にもならずにすんだ. 人の運命とはいうものはわからないものだ.


【出典:『改定縮刷決定版 大東亜戦争秘史●マレー/ビルマ編』(富士書苑 1954/07/25発行)p.239-p.256讀賣新聞社記事審査部主査 若林政夫「イラワジ戦記」】

以下は 高崎隆治編著『教科書に書かれなかった戦争part.17 100冊が語る「慰安所」・男のホンネ アジア全域に「慰安所」があった』(梨の木舎 1994/12/08 isbn:4816694056 )より孫引き[■に続く文章は高崎隆治氏の解説]


ラングーン 1942年

ビルマ日記』榊山潤著 南北社 1963年9月

    ラングーン市内に基督教青年会館がある. 朝鮮の女子部隊が到着して,その女子部が女郎屋になったのは,十日ばかり前からで,屋上から幅三尺ぐらいの長い布を垂らし,その幅いっぱい,墨色もあざやかに,「アリラン部隊来たる」と書いてある. 料金は兵隊五十銭,尉官一円,佐官クラスが一円五十銭である. 兵隊は週二日,水曜と日曜に,昼からそこへ行くことが許されていた. その最初の日には,一人の女が五十人から百人を相手にした,というような話も伝わっていた.

    ■1942年5月

     

    憲兵が三人で,二十人あまりのビルマ女を,連れて行くのである. 連れて行き方が唯ごとではなかったし,女たちの様子も唯ごとではなかった. 後で読売の大河内君が来ての話で,それが,近くにできた「部落」の女たちであったのが分かった. 憲兵がその買春窟に手入れして,女たちを何処かへ連れて行ったのである. 「いけないというのかね. そういう商売が. それがいけないというなら,アリラン部隊だってよくないじゃないか」「アリラン部隊は公許だ. 女郎屋の亭主が軍と結託して,ひと儲けに乗り出して来たのだからね. ああいう私娼をバッコさせては,公許の女郎屋の亭主の儲けが,うすくなる. うすくなっては,軍として申訳がない. そこで手入れとなるのは,当然の成行だ」「女郎屋の亭主の利得を,軍が保護するということか」

    ■「いけないというのかね-」というのは著者の言葉



『戦場と記者』小俣行男著 冬樹社 1967年3月[引用者注:小俣行男『戦場と記者 日華事変・太平洋戦争従軍記』(古書価300円)より補足しておく.補足部分は青字]

    ラングーンは発電所が徹底的に破壊されたため,電燈の復旧は遅れた

    商店街は日没とともに店を閉めた. この商店街をのぞいてみるとインド人の店ばかりでビルマ人の店は見当たらなかった. イギリスの統治政策もあって,ビルマの商工業はインド人が握っていた. 商工業ばかりではない. 農村もインド人が支配していた. 土地はインド人の高利貸しに奪われ,村長も地主もインド人で占められ,ビルマ人,カレン人,シャン人などビルマ土着の民族はインド人の支配下に置かれていた. その他にアングロ・インディアンと呼ぶ混血族がいた. 英人とビルマ人の混血だ. それらがいつの間にかひとつの民族になっていた. ビルマ人はこれらの「外来者」の下で,労働者になり,小作人となって働いていたのだ.

    だからラングーンの商店もインド人に占領されていた.

    このインド人がまた種々雑多,ヒンズー教徒から回教徒,各種の宗教を信ずるもの,貿易商から苦力まで,各種の職業に従事するもの,色とりどりだが,イギリスの威を借りてビルマに来てわがもの顔に振舞っていたのだ. だから商店街に入るとビルマの町にいるというよりもインドの町にいるという感じだ. ビルマ人が影をひそめ,インド人が大手を振って歩くビルマの首都ラングーンビルマ人が「ビルマ人のビルマ」「ドバマ」を叫ぶ意味がわかるような気がした.

    しかし,これも昼の間だけ,暗い夜になると,街は死んだように静かになった. そのなかで,ローソクで営業している店があった.

    日本人の食堂や料理屋だ.

    逸早くラングーンに乗りこんできた白木屋では,大きなクラブを占領して食堂を開業していた. 広い芝生のあるクラブだった. 私たちと一しょにトラックに揺られてきた若い女がここでは甲斐甲斐しく働いていた. 彼女は将校たちの人気の的になっていた. 私たちはここでビールをあおった. 夜更けまで時間をつぶして,酔っ払い運転で帰って来たが,誰もとがめるものもいなかった.

    ある日「日本から女が来た」という知らせがあった. 連絡員が早速波止場へかけつけると,この朝到着した貨物船で,朝鮮の女が四,五十名上陸して宿舎に入っていた. まだ開業していないが,新聞記者たちには特別サービスするから,「今夜来て貰いたい」という話だった.

    ■1942年5月か6月ごろのラングーン.「連絡員」というのは新聞社の者.

     

    「善は急げだ!」
    ということになって,私たちは四,五名で波止場ちかくにある彼女らの宿舎にのりこんだ.

    私の相手になったのは二十三,四の女だった. 日本語はうまかった. 公学校で先生をしていたといった. 「学校の先生がどうしてこんなところにやってきたのか」ときくと,彼女は本当に口惜しそうにこういった.「私たちはだまされたのです. 東京の軍需工場へ行くという話で募集がありました. 私は東京へ行って見たかったので,応募しました. 仁川沖に泊っていた船に乗りこんだところ,東京へ行かずに南へ南へとやってきて,着いたところはシンガポールでした. そこで,半分くらいがおろされて,私たちはビルマに連れて来られたのです. 歩いて帰るわけにも行かず逃げることもできません. 私たちはあきらめています. ただ可哀そうなのは何も知らない娘たちです. 十六,七の娘が八名います. この商売はいやだと泣いています. 助ける方法はありませんか」

    ■著者は考えた末に憲兵隊に逃げこんで訴えるという方法を教えたが,憲兵がはたして助けるかどうか自信はなかった. 結局,八人の少女は憲兵隊に救いを求めた. 憲兵隊は始末に困ったが,将校クラブに勤めるようになったという. しかし,将校クラブがけっして安全なところでないことは戦地の常識である. 著者は「その後この少女たちはどうなったろうか」と記している.

    [中略]

    その後ビルマには陸軍専用の料亭がたくさんできた. なかでも久留米からやってきたという粋香園は,芸妓,半玉,女中,コックはいうまでもなく,髪結いさんから仕立屋,洗張り屋,婦人科医まで総勢150人,タタミから座布団,屏風,会席膳一式まで海路はるばる軍用船で運んできたといわれるが,これはずっと後の話,私たちのいた頃は,ハダカローソクか縁側の板の上でガマンしなければならなかった. たいていの夜は,私たちは,女気のないベランダで星をみながらウイスキーを飲んで過ごしていた. これはシンガポールで占領したウイスキーを軍司令部か航空部隊へ行って貰ってくるのだった.