1992年当時の新聞を読んでみる


目次[順次 追記してゆく予定です*1/関連記事 http://d.hatena.ne.jp/dempax/20070512 ]

  • 朝日新聞 1992/02/05 朝刊(30面) 慰安婦問題/旧日本軍が「管理規則」/米軍作成報告書に全文

毎日新聞 1992/01/27 朝刊(26面 社会 事件 ひと 話題)

    [見出3行分*1段]慰安婦の旧日本軍関与,米にも資料


[本文]【ワシントン26日共同】第二次大戦中,日本殖民地下の朝鮮からビルマ(現ミャンマー)の戦線に送り込まれた朝鮮人従軍慰安婦に旧日本軍が深くかかわっていたことを示す記録が,米側資料で26日明らかになった.


この資料は,米メリーランド州スートランドにあるワシントン記録センター(国立公文書館付属)の「米軍尋問報告書」二通. 朝鮮人従軍慰安婦20人の供述などを基に作成された. 報告書によると,当時のビルマに送られた朝鮮人慰安婦は1942年8月の輸送船だけで703人. このうち捕虜となった20人は日本人が経営する慰安所で,週七日間働かされ続けた.


【出典:毎日新聞縮刷版1992年1月】

朝日新聞 1992/01/31 朝刊(30面 第2社会)朝刊(30面)

    [見出28行分*1段]ビルマ戦線/旧軍関与 米側に証言/米軍尋問報告書


第二次大戦中,日本植民地下の朝鮮からビルマ(現在のミャンマー)の戦線に送り込まれた朝鮮人従軍慰安婦の募集から現地での管理まで旧日本軍が深くかかわっていたことを示す生々しい記録が,従軍慰安婦捕虜の証言をまとめた米側資料で26日明らかになった.(ワシントン=共同)


    [見出6行分*3段]旧日本兵が行列 休みなしに相手/雇用主に軍書簡 通行などに便宜


米側資料には,朝鮮人慰安婦20人の氏名,年齢,住所も記載されている.


この資料は,米メリーランド州スートランドにあるワシントン記録センター(国立公文書館付属)の「米軍尋問報告書」二通.


報告書は,1944年8月,ビルマ戦線に送り込まれ,旧日本軍とともに逃避行中に米軍捕虜となった朝鮮人従軍慰安婦20人の供述などを基に作成された.


報告書によると,当時のビルマに送り込まれた朝鮮人慰安婦は42年8月だけで703人.


このうち捕虜となった20人は当時,19歳から31歳. 42年8月,雇い主の日本人夫妻と日本植民地下の朝鮮からラングーン(現ヤングン)に到着. 翌年1月に北部の町ミッチナに移り,この経営者が経営する慰安所で,行列する旧日本兵を相手に週七日間休みなく働かされ続けた.


一緒に捕虜になった慰安所経営者は尋問に対し,ソウルにあった日本陸軍朝鮮軍総監部から持ち掛けられて,一人当たり当時の金で300円から1000円の前渡し金で,22人の女性を雇ったと供述した. その際,総監部から全陸軍司令部あての書簡を手渡され,その中で輸送から医療まで一行の便宜を図るよう指示していたという.


朝鮮人慰安婦の供述によると,現地では,部隊別の慰安所利用日から軍医による慰安婦の性病検診まですべて軍が決定した.

【出典:朝日新聞縮刷版1992/1月p.1418】

讀賣新聞 1992/02/05 朝刊(1面)

主なニュース[中略]「慰安婦問題」で新資料(社会面)[以下略]

讀賣新聞 1992/02/05 朝刊(31面 社会)

    [見出 12行分*4段]従軍慰安婦問題 日本軍関与の新資料「管理規則」米国で発見 責任将校の許可で少女も


[本文]【ワシントン4日=共同】第二次世界大戦中,旧日本軍の最高指導部による従軍慰安所設置の指示を受け,マニラの前線部隊がどのように慰安所慰安婦を運営,管理していたかを具体的に示す管理規則の全文が,米軍作成の調査報告書「日本軍の慰安政策」の中にあることが4日,明らかになった.


現地部隊作成の詳細な管理規則が残っていたことにより,上層部から現地部隊まで旧日本軍が一体となって慰安所に深く関与していたことがはっきりした.


報告書は,米カンザス大学のグラント・グッドマン名誉教授が保管していた.


報告書によると,管理規則はマニラ方面通信隊のオオニシ(音訳)中佐が43年2月に出したもので,「マニラの公認飲食店と慰安所規則」と題する小冊子になっていた.


一般規則,営業活動など六章から成り,営業活動の認可や営業活動の認可や営業場所の指定,日報と月報の提出,慰安婦,従業員の休日届まで通信隊の責任将校が担当すると明記されている.


規則にはこのほか,慰安婦の売上の半分は経営者が徴収することや,軍医による慰安婦の定期検診も盛り込まれている.


さらに,高級将校用の特別クラブの設置も規則で決め,そこでは責任将校の許可があれば少女も慰安婦として雇うことができた.


報告書はこのほかタクロバン,ブラウエン(いずれもフィリピン),ラバウル(パプアニューギニア),スマトラ(インドネシア),上海の従軍慰安所の実態も捕虜などの証言で紹介. 慰安婦の多くは朝鮮人と日本人だが,中国人やスマトラ女性なども含まれている.


報告書付表には,在マニラの慰安所に関する警察の検診報告(44年2月)もあり,経営者は利益ばかりを追求,慰安婦の福利厚生には関心を払わないと指摘している. この報告によると,市内20か所の慰安所で計1183人の慰安婦が働き,うち69人が病気と診断されている.


【出典:讀賣新聞縮刷版1992年2月】

毎日新聞 1992/02/05 (3面 総合 ニュースの焦点)

    [見出 6行分*3段]旧日本軍による「慰安所」管理/米軍新資料も裏付け


[本文]【ワシントン4日共同】第二次世界大戦中,旧日本軍の最高指導部による従軍慰安所設置の指示を受け,マニラの前線部隊がどのように慰安所慰安婦を運営,管理していたかを具体的に示す管理規則の全文が,米軍作成の調査報告書「日本軍の慰安政策」の中にあることが4日,明らかになった. 旧日本軍が上層部から現地部隊まで一体となって関与していた記録が出て,朝鮮人慰安婦をめぐる日韓両国の補償問題の行方にも大きな影響を与えそうだ.


報告書は,米カンザス大学のグラント・グッドマン名誉教授が保管していた. 教授は終戦の1945年から一年間,占領軍の語学将校として日本に滞在,報告書の作成に携わった. 45年11月にまとめられた36ページの報告書のうち,慰安所については付表も含め29ページが割かれている.


報告書によると,管理規則はマニラ方面通信隊のオオニシ(音訳)中佐が43年2月に出したもので,「マニラの公認飲食店と慰安所規則」と題する小冊子.


一般規則,営業活動など六章から成り,営業活動の認可や営業活動の認可や営業場所の指定,日報と月報の提出,慰安婦,従業員の休日届まで通信隊の責任将校が担当すると明記されている.


規則にはこのほか,慰安婦の売上の半分は経営者が徴収することや,衛生面では軍医による慰安婦の定期検診も盛り込まれている. さらに,高級将校用の特別クラブの設置も規則で決め,そこでは責任将校の許可があれば少女も慰安婦として雇うことができた. 報告書はこのほかタクロバン,ブラウエン(いずれもフィリピン),ラバウル(パプアニューギニア),スマトラ(インドネシア),上海の従軍慰安所の実態も捕虜などの証言で紹介している. 慰安婦の多くは朝鮮人と日本人だが,中国人やスマトラ女性なども含まれている.


【出典:毎日新聞縮刷版1992年2月】


讀賣と毎日の縮刷版1992年1月と2月を眺めたかぎりでは,他にもいろいろ新資料がみつかり一面トップ記事もあるに対して,米軍新資料についてはいずれも小さな扱いという印象. 記事が≪旧日本軍≫という言葉を使っているのも昨今の産経新聞記事に比べ,印象深いものあり.*2


id:pr3 2007/05/29 ■[watch][komorin][iza]古森義久氏, 勘違いする. より抜書き

奴隷であるかどうかの定義は, 1.強制的にあるいは詐欺的に連れてこられたか 2.労働を強制され休んだり辞めたりする権利はあったのか といったあたりによります. 奴隷, すなわち財産として扱われる人間を保護するのは使役者の判断ですが, これは奴隷扱いしているかどうかとは関係ありません. 財産を保護するのは当たり前だからです. 非難されている内容を理解せずに, あるいは曲解して反論するから, こういうおかしな発言になるんでしょうね.

同じくコメント欄より

Stiffmuscle 『sexual slavery の定義は, 「マクドガル報告」にありますね. それから, ラバウルの件ですが, 連合軍の大規模な攻撃があり, ラバウルあたりの海域は連合軍が制圧してたので, 避難させる時期が遅かったことは言えます. ラバウルなどの慰安婦の実態はあまりよく知られていない部分もあり, 古森さんは, そこらへんも承知の上でブログの記事を作ってるかもしれません. 』 (2007/05/29 23:34)

[pr3] 一般的には, たとえば日曜を休日にするなどの仕組みがあるとしても, 働かされる本人の任意で(疲れたから, などの理由で)休めるかどうかが, 強制かどうかのポイントになっていると思います. これはわたしが祖父から聞いた話ですが, 戦前は内地の工場でも日曜はなく, 月に1回か2回しか休めなかったものだそうです. 公式には土曜半休・日曜全休というルールはあったはずですが, そういう時代だったことも踏まえておく必要があるかもしれません. (2007/05/30 07:05)

=2007/05/31追記=

松岡農水相自殺::事象の地平線 2007/05/28 http://www.cm.kj.yamagata-u.ac.jp/blog/index.php?logid=5352#comments

早速,石原慎太郎都知事が,「死をもって償ったという意味では,彼も侍だった」といったようなコメントをしているようですね. 大変そら恐ろしい気持ちにさせられました. 今回は,死によって,多大な混乱と迷惑を撒き散らして自分だけ逃げた──という状況になってきているように,素人目には見えるのですけど……. 「償った」という感覚なのか……. 【コメント欄:at 2007/05/28 22:18:39】

[中略]

作家や文学青年がこういう情緒的なことを言うのなら、それはそれで仕方がないのですが、都知事という公職にある人の言うことではないでしょう。 publicという概念をまともに持っていないということをさらけ出しているわけで。恐ろしいというよりも、無知、恥といったところではないかと。【コメント欄:at 2007/05/29 12:54:05】

[中略]

ニセ科学の論争で、仮説を否定しているに過ぎないのに、自分の全人格を否定されたかのごとくムキになる人というのは、たくさんいますよね(自分もあまり人の事は言えませんけど(苦笑))。【コメント欄:at 2007/05/28 22:18:39】

虚構の皇国blog 2007/05/29 松岡利勝の「日本国万歳」! id:tadanorih:20070529

ナントカ還元水の人は,身辺に迫った緑資源機構事件追及の手を逃れ「生きて虜囚の辱を」受けないために死を選んだのだろうが,死んで何らかの「責任がとれる」と思ったら大間違いだ. そもそも遺書の末尾に「日本国万歳」と書く国士気取りと,事務所の水光熱費をちょろまかす糞セコさのギャップは,国民的嘲笑に値する.

=2007/06/01追記=

≪仮説を否定しているに過ぎないのに,自分の全人格を否定されたかのごとくムキになる人≫については,id:dempax:20060112#p1 (d)の反対 で指摘したことがあるが, 逆に言えば (d)相手の部分的間違いを見つけると相手のすべては間違い!!であることにしてしまう(ex.渡部昇一御愛用)型. 解決不能 2007/05/29 無能な善人より有能な悪人 から抜書き

しかしそれでも彼の醜聞を取り上げる際には,たった一言でも「彼の実績」について触れて欲しいと私は思うのです. このままでは彼はただの「悪人」で評価が決定してしまうでしょう. それが私には惜しい.

個人的な評価ですが,彼は「悪人」ではあっても政治家としては「有能」であった.

【出典:解決不能 2007/05/29 無能な善人より有能な悪人 http://d.hatena.ne.jp/hagakurekakugo/20070529

島根県選出青木参議院議員に飛び火して*3,小学校4年から中学3年まで松江に住んでいたあたしは田部長右衛門を思い出す. 戦後農地改革がもっと徹底していたら, 住宅問題なんかもさぞすっきりしてたことであろう. と,≪玉葱を載せたその皿一枚を足元に置けば,ワンルームの台所兼廊下という一畳に満たないスペースが,通行不可能になる[笙野頼子「なにもしてない」『三冠小説集』河出文庫し4-4 p.178]≫冷蔵庫をおいた日には封鎖状態の部屋[\6.5万/月]で考え込んでしまうのであった. *4

 

*1:朝日記事は複写済み,赤旗,産経は次の休みの日に調査

*2:≪旧日本軍≫と≪日本軍隊≫がどう違うかわからないが,さんけいなひとたちに≪自分と日本軍≫の一体感の高揚が感じられるという点で

*3:06/01 8:30現在ぐぐる東京新聞しか載っていない??

*4:…冷蔵庫欲しいんだけど置く場所が風呂の中くらいしかない. 本を捨てろ!!!!!と押掛け[時々]同居人は言う. 他人様から見ればゴミの海に溺れてるとしか…………