市川房枝 娼妓取締規則解説

内務省警保局>その他>種村氏警察参考資料第3集
公娼制度に関する件(アジア歴史資料センタref.code:A05020103300) DjVuファイル 6/23から9/23に娼妓取締規則 http://www.jacar.go.jp/DAS/meta/MetaOutServlet?GRP_ID=G0000101&DB_ID=G0000101EXTERNAL&IS_STYLE=default&IS_TYPE=meta&XSLT_NAME=MetaTop.xsl

blog*色即是空 2007/05/25 "公娼制度は合法だったから「慰安婦」制度も違法ではないという嘘"に娼妓取締規則テキストと簡単な解説あり http://d.hatena.ne.jp/yamaki622/20070525/p1



娼妓取締規則が,対外的には日本が人身売買の無い近代国家であることのアリバイ作りであると同時に,国内的には警察管理の国家売買春制度=業者と警察,政治家の癒着した利権=の継続であったことは忘れない方がよいだろう.



以下『日本婦人問題資料集成第1巻=人権』市川房枝解説"第2編 買春問題 第4部 公娼制度確立への過程とキリスト者の抵抗運動"からの抜書き

思わぬペルー側からの反撃(引用者注:資料4-3マリヤ・ルーズ号事件[1872年])に,明治政府は1872年(明治5年)10月,有名な娼妓解放令(4-4,4-5)を布告する. 俗に牛馬切りほどきといわれたが,津田実道の建白書に出てくる「牛馬」と同じ語が使われているのは偶然の一致か,または影響なのか. 太政官達は人身売買の禁止・年期奉公の制限をしており,司法省達では前借金無効を通達している. この二つの布告が完全に実施されれば日本は1872年で公娼制度廃止の"名誉"をかちえたのだが現実はそれにそむいた. 同年10月の太政官達以降,東京府ではたてつづけに通達(4-6)が出るのは,さすが徳川幕府の高官であった大久保一翁知事の手腕かと思うが,抜け道があり,「今後当人ノ望ミニヨリ」での渡世は認められ,「本人真意ヨリ出願」に相違ないことを区戸長が調べたら,本人は出頭せずともよいことになった. 本人の自由意志で客に接するのはかまわず,業者は遊郭の施設を貸座敷として自由営業者-娼妓に使わせることは認められる. 娼妓規則(4-8)によれば,娼妓は自宅より通勤することも自由であるが,後年の規則(4-28)では「娼妓ハ貸座敷内に寄寓スヘシ」「外出ヲ為ストキハ貸座敷主ヲ経テ取締ノ承認ヲ得常人ノ服装ヲナシ貸座敷ノ付添人ト同伴スヘシ」となり,娼妓は厳しく取締られ,貸座敷業は所轄警察署に届出の義務さえ果たせば営業は守られ,まさに公娼制度が確立されてくる. せっかくの娼妓解放令は一年後の東京府令第145号(4-8)で水泡に帰したのである. 【『日本婦人問題資料集成第1巻=人権』p.39-40】

引用者注
4-4:太政官達第295号(娼妓解放令) 1872/10/02
4-5:司法省達第22号 1872/10/09
4-6:人身売買厳禁に関する東京府令 1872/10/04-10/10
4-8:東京府令達第145号(貸座敷渡世・娼妓・芸妓規則) 1873/12/10

1900年(明治33年)10月2日に発布された娼妓取締規則(4-37)は,一連の自由廃業運動の結果であることは疑いもないが,一面,イギリスとの同盟関係も考え,政府は苦慮していたので早急に処置を取った. 各県まちまちであった規定を統一し,娼妓の年齢を16歳から18歳に引き上げ,自由廃業の規定を明文化した. 公娼制度の枠内ではあったものの,反対運動の盛り上がりに押されて制定された規則は,娼妓たちのために一歩前進の規則であったのに,彼女達が自由廃業にふみきれず依然として貸座敷業がつづくのは何故か. それは1905年に出される判決(4-39)で,前借金返済義務が課せられたのと,娼妓取締規則第5条第2項の悪用のためである. 1項と3項を適用すれば娼妓は自由に廃業が可能であるのに,2項を厳守して必ず本人が警察に出頭するのでなければ申請を受けつけず,楼主と警察官の前での交渉は娼妓にとって圧倒的に不利であり,そのうえ,債権を握られていては決意を固めていても崩れ易いのは当然である. 警察官が娼妓の自廃に冷淡なのは,4-52,5-1,5-2に見られるごとく,多くの場合の常識であった. 山室軍平は「然しながらそれから後,間もなく反動が来た. 所謂警察の手心で自由廃業を取扱うこととなり,廃業を願ふ娼妓がある時は,楼主を呼出して『示談』させ,或はその親を呼び出して之と『協議』させ,警察官は又之に,所謂『説諭』を加へて廃業の意思を翻へさしめ,之を遊郭に送り戻すやうなこととなつたのである. かくして娼妓を廃業し,堅気になりたいといふ者に,説諭を加へて醜業をつづけしめるといふのが,既に奇怪千万なことであるのに,それに加へて楼主側のあらゆる圧迫を以てし,暴力を以て之を威嚇することを許容するに至つては,真に沙汰の限といふべきであつた」(山室武甫編『山室軍平選集』第6巻「救世軍機恵子寮開設に際して」)と述べているし,彼の『社会廓清論』に詳しい. 【『日本婦人問題資料集成第1巻=人権』p.46-47】

引用者注
4-39:貸金請求の件判決 1902/02/06
4-52:警察権の蹂躙-貸座敷業者と娼妓との関係(『廓清』第1巻 第1号)
5-1:娼妓の廃業に対する中央警察官と地方警察官の処決振り-静岡警察と東京警視庁の取扱ひし事実(『廓清』第2巻 第12号)
5-2:艶衣事件-改正娼妓取締規則劈頭の正式裁判(『廓清』第3巻 第3号)