11.寝食を忘れて(大山村役場)

9月1日午後8時頃千葉縣農會技手伊藤正平北條税務署屬久我武雄の兩氏來着 稀有の大震災にて北條,館山,那古,船形等は全滅し倒潰せざるものは房州銀行(今 千葉合同銀行北條支店)及税務署の二棟のみにして死傷者の數知れず斯る惨状は少時も放擲[*1]し置くを許さずと雖も急に應援を求むるも郡吏員は八方に奔走し或者は親を失ひ一人として使者たるべき者なく脚夫を雇ひ度も皆被害者にして應ずる者なく大山村吉尾村は山間部にして被害の程度も少なく求援に便なるも之れを告ぐる使者なく 時の郡長大橋高四郎は苦心せられつつあり 税務署は幸倒潰等の被害なきにより税務署長に交渉し兩氏の出向を乞ふ所ありたり 兩氏は人々色を失ひ戰慄恐怖の際克く旨を了し快諾闇夜只1個の古提灯を携へ龜裂凸凹の惡路や陥落の橋梁を乗越え來り郡長の意を述べ直に應援出動せられ度旨聞く事々に被害の慘禍は驚愕せざるものなし尚 病院,醫師,藥劑師宅も倒潰し負傷者の應急手當に要すべき材料なくて右衛生材料携帯片時も早く出動方心配せられたく又出動者には當然食事を給與なすべくも罹災民全部食料に窮し目下之が救助の方法を講究中なれば食料は携帯せられ度 尚又掘井戸水道は崩落全く汲むに水なく飲料水も携帯を乞ふ有様なれども水はまづ如何なる方法によるも差つかひなきことなるべく 食料の用意にて足るべき由 依て時の在郷軍人大山分會長塚越均一,青年團長宮崎徳造の兩人は東奔西走團員會員中自轉車所有者を以て先發隊となし,之に衛生材料,脱脂綿,ガーゼ,アルコール,エーテル石炭酸,葡萄酒等を取纏め各人に分担携帯せしめ大山救護隊なる紙旗を箙[*2]となし漸く11時頃急行を命じたるに 夜中の惡路を厭はず2日午前1時18分に着し救護隊第一着一番乗なりき 順次徒歩のものもあり午前11時には154名参着せられたるに北條,館山,船形の3ヶ所に配置せられ 大いに活動なし青年團 軍人分會共に感謝状を賜りたり 分會長塚越均一氏は北條町に於て總指揮官となり青年團長宮崎徳造氏は共に聯絡をとり 出動者食料辨當の炊出に從事し 自宅前に四ヶ所の炊事場を設け附近の人々の援助を乞ひ握飯を作り残暑なれども腐敗を恐れ朝晝夕の三食を傳令の通知による人員數により不足を生ぜざる様に傳送したり


相川伴吉氏は振動中何人も屋内に入るを恐るる際に拘はらず救護米の精米に從事し時々激動の爲發動機の故障を生ずる事ありしも義侠的罹災地民の救助の一端たりとして晝夜兼行精米に精神的に努力せられたる功績顯著なりとて郡長より表彰状を送られたり


中山長吉は同じく救護米の運搬に從事し夜中道路龜裂橋梁陥落の箇所あるにも拘はらず餘震頻々たるも危険を冒し運送を一身に引受け被害地民に便利を與へたり


役場所在地なる埋田組の人々は毎日交代に當番をなし避難民に牛乳及握飯を造り接待所を置き接待せり


暴行團の襲來ありなどの流言蜚語は時々刻々に盛んに傳はり竹槍木刀日本刀猟銃等各自夫々の得物を所有して警戒所間の聯絡をとり警戒所毎に石油空罐に繩を張り觸れれば音響を發する措置をなし如何にも物々しき有様にて人心恟々たりき


消防組は警戒巡察に當る者の外一部は消防機具置場に配置し萬一に備へ遺漏なきを期したり

*1:擲 ちゃく なげうつ

*2:箙 フク えびら 矢を入れて背負う武具