社会党ラッパ節
土取利行明治大正演歌百撰 http://m.youtube.com/watch?gl=JP&hl=ja&v=oJZ_FCqeVQc
社会党ラッパ節
華族の妾のかんざしに ぴかぴか光るは何ですえ
ダイアモンドか違ひます 可愛い百姓の膏汗
当世紳士のさかづきに ぴかぴか光るは何ですえ
シャーンペーンか違ひます 可愛い工女の血の涙
大臣大将の胸先に ぴかぴか光るは何ですえ
金鵄勲章か違ひます 可愛い兵士のしやれこうべ
浮世がままになるならば 車夫や馬丁や百姓に
洋服着せて馬車に乗せ 当世紳士に曳かせたい
待合茶屋に夜明しで お酒が決める税の事
人が泣かうが困らうが 委細構わず取立てる
お天道様は目がないが たまにゃ小作もしてごらん
なんぼ地道に稼いでも ピーピードンドン風車
名誉名誉とおだてあげ 大切な伜をむざむざと
包[つつ]の餌食に誰がした 元の伜にして返せ
胸につるして得意顔 およし男が下がります
あはれ車掌や運転手 15時間の労働に
車の軋るそのたんび 我と我身を削いでゆく
不知山人がソシアリズムをかみしめているうちに、その機関誌『光』がラッパ節の替歌を出した。これを機縁に堺枯川と握手をする。そして『社会党ラッパ節』ができる。……この頃から俳号であった唖蝉へ、坊をつけて名のるようになった。
『演歌の明治大正史』刀水書房 1982/11/30 p.131
私は堺枯川を元園町に訪ねた。敬う気持ちがあったが、着流しに兵児帯を無雑作に巻きつけて、「わたし、堺です」と出て来た、その初めての印象がよかつた。其の時氏は「家庭雑誌」をやつていたが、一方新聞に、ラッパ節の替歌を募集したが思はしくないので、私のを入れたいといふのであつた。私はラッパ節を新作した。社会主義喇叭節と題したら、社会党喇叭節の方がいいといふので、私は党といふ字が嫌だつたが、それに従つた。
『唖然坊流生記』大空社 1996/04/26 = 那古野書房 1941/02/28 復刻 = p.192