1 大東亜戦争期の日本陸軍における犯罪等の実態


1 たとえば藤原彰天皇制と軍隊』(青木書店、1978年)、熊沢京次郎『天皇の軍隊』(現代評論社、1974年)など


2 陸軍刑法における「逃亡ノ罪」は、敵前、戦時・軍中・戒厳地境、その他の 3つに区分され、敵前が最も重い罪とされ死刑を含む刑罰が規定されていた。「奔敵」とは「逃亡ノ罪」のうち、敵側に奔ることをいう


(1)犯罪等の発生状況
ア 昭和 12年から同 16年まで


昭和 15(1940)年 11月、支那事変(日中戦争)間に発生した犯罪非違について大本営陸軍部研究班がまとめた「支那事變ニ於ケル犯罪非違ヨリ觀タル軍紀風紀ノ實相竝ニ之ガ振肅對策」3によれば、同事変が勃発した昭和 12(1937)年 7 月から同 14(1939)年 6月までの約 2年間の内地、満州及び戦地における犯罪及び非違人員の総計は、犯罪が 5,221名、非違が 32,964 名であった。このうち戦地における犯罪数を日清、日露両戦役と比較すると、出征兵力及び期間4は異なるものの、支那事変における犯罪発生数は両戦役と比べて著しく大であり、かつ高率であるとされ、また召集兵が現役兵の 3倍半弱の多数を示す状況にあった。さらに犯罪の性質及び特色を見ても、軍紀上最も忌むべき行為である対上官犯が、日露戦争時の約 7倍半に達するとともに、逃亡犯も日露戦争時よりも遙かに多いと分析されていた


イ 昭和 16年から同 17年まで


陸軍における犯罪等の状況は、対英米戦が勃発した昭和 16(1941)年以降においても同様の状況にあった。昭和 16年度の陸軍の犯罪者数は 3,148名、非行は 7,699名であり、これを前年度の犯罪者数 2,996名と比較すると約 1.05倍で、兵力(昭和 15年:約 135万、昭和 16年:約 210万5)の増加分を考慮すれば減少の傾向にあった。しかし戦争が本格化した昭和 17(1942)年度の犯罪者数は 4,516名、非行は 11,636名で、犯罪者数において昭和 16年度の約 1.4倍に、また非行は約 1.5倍となり、兵力(昭和 17年:約 240万6)の増加分を考慮しても犯罪、非行ともに増加する傾向にあった7。犯罪内容のうち対上官犯(抗命、上官暴行、殺傷、侮辱)についてみると、昭和 16年の対上官犯は 341名で昭和15年(202名)の約 1.7倍となった。また昭和 17年 1月から同年 7月末までの半年間における対上官犯は 126件、152名に達していた。その内訳を罪名別に見ると、抗命(含党与)20 名、上官暴行脅迫(含党与、用兵器)71 名、上官殺傷(含党与、用兵器)45 名、


3 大本営陸軍部研究班「支那亊変の経験に基づく無形戰力軍紀風紀関係資料(案)」(防衛研究所図書館所蔵)


4 日清戦争の 2年間の兵力の平均は約 12.7万、日露戦争の 2年間の兵力の平均は約 95万、支那事変の昭和 12年から昭和 14年の兵力の平均は約 111万である。(原剛、安岡昭男『日本陸海軍辞典コンパクト版(下)』(新人物往来社、2003年)246頁)


5 原、安岡『日本陸海軍辞典コンパクト版(下)』246頁


6 同上。


7 「軍紀風紀上等要注意事例集(昭和 18年 1月 28日陸密第 255號別冊第 7號)」(防衛研究所図書館所蔵)。(以下「事例集別冊第 7號」とする)


上官侮辱 16名と、上官暴行脅迫及び上官殺傷等の悪質犯が全体の 76%を占める結果となっていた。中でも中隊長以上に対する対直属上官犯については、准尉(応召)による大将(軍司令官)に対する犯行をはじめ多数発生しており、対上官犯に関しては今後とも楽観を許さない状況にあったのである。また奔敵逃亡についても、支那事変以来、昭和 17年 7月までの満州及び支那における奔敵の合計は 99名で、昭和 14(1939)年の 35名を最多として、同 17(1942)年には 14名と逐次漸減の傾向を示していた。しかし支那事変開始以来の外地における敵前並びに軍中逃亡、離隊者の合計は 3,006名に達し、逐年増加の傾向にあるなど厳しい現状にあった


ウ 昭和 18年
昭和 18(1943)年度の軍内犯罪数は 4,544名、非行は 10,089名(昭和 18年の兵力は約 290万で、昭和 17(1942)年の約 1.2 倍)であり、兵力の増加を考慮すれば若干減少の傾向をみせた。しかし過去 5 年間の状況と比較すれば幹部の犯罪が急増するとともに、奔敵逃亡及び対上官犯の急増等、顕著に質的悪化の状況を現示しており、軍においても最も注意厳戒を要するとされていた。これらの犯罪のうち幹部によるものは犯罪総数の 15%強(684名)を占め、これは昭和 17年度と比較して 135名(将校 82、下士官 53)の増加であり、昭和 14(1939)年度の 2倍強で、その内容も逃亡 42名、上官暴行 31名、辱職28名など悪質軍紀犯が増加していた。特に「・年將校ニシテ酒色ニ溺レテ軍中逃亡ヲ敢行シタル者」、「上級將校ニシテ一時ノ憤激ヨリ對上官犯ヲ敢行シタル者」、「高級將校ノ汚職行爲」があったことは問題視されていた


軍内犯罪を役種別(指数は千人比)にみると、現役1,629名(1.18)、応召者1,307名(1.07)、軍属 1,608名(4.89)で軍属の犯行が多く、非行に関しても、現役 3,730名(2.71)、応召3,171名(2.59)、軍属 3,188名(9.81)で軍属の指数が高かった。軍属の犯罪数は昭和 16(1941)年度に 781名(非行 1,827名)であったものが、昭和 17年度には 1,613名(非行 2,290名)と一年間で倍増しており、軍においても取り締まりについては格別の努力を要するとしていた


階級別では、総数で兵(4,391 名、2.07)及び軍属が多数を占め、且つ指数においても軍属が圧倒的ではあるが、兵よりも将校(691 名、4.54)及び下士官(1,819 名、5.46)の方が高率を示す傾向にあった9。犯罪内容のうち昭和 18(1943)年度の対上官犯は 428名で、党与対上官犯 2件 73名、上官殺 10名であり、とりわけ対直属上官犯は前年度の約


8「軍紀風紀等ニ關スル 報第 6號(昭和 17年 12月 19日)」(防衛研究所図書館所蔵)。


9 「事例集別冊第 7號」
弓削 日本陸軍における犯罪及び非行


3倍強の 62名に達するなど激増していた10。また昭和 18年度の奔敵逃亡の総数は 1,066名で、これは犯罪総数の 23.4%(第 2位)に当たり、階級別では、将校 16名(0.10)、下士官 29名(0.09)、兵 619名(0.03)、軍属 402名(0.01)となり、その大部分は兵、軍属によるものであったが、比率からいえば将校が最も高かった11


エ 昭和 19年
昭和 19(1944)年はさらに厳しい状況であった。同年 1月から 7月の幹部の犯罪数はすでに 490名に達し、前年一年間の犯罪数 684名と比較しても著しく増加していた。犯罪内容のうち対上官犯は 347名と前年度一年間のその総数に近く、また、奔敵逃亡についても奔敵 40 名、逃亡 1,085 名は既に前年度一年間の総数を超過しており、将兵の志気の低下を如実に表現しているものと考えられた12


第 1 復員省が戦後作成した「支那事変大東亜戦争間動員概史(草案)」13(以下、「動員概史」という)に記載されている「自昭和十二年至昭和十九年十二月軍法會議處刑人員各地年別表」によると、昭和 19年 1月から 11月までの処刑(死刑、懲役刑、禁錮刑)人員の総計は 5,586名で、前年の処刑人員、4,981名と比較すると兵力の増加分(昭和 19年の兵力は約 410万14で、昭和 18年の約 1.4倍)を考慮すれば、やや減少に転じたと言えるが、詳細は不明である。このように昭和 18年から 19年前半にかけての犯罪等の発生状況は、戦況の悪化に伴い質的悪化の傾向を益々強めて行ったのであった


なお、昭和 20(1945)年については今回、検証することができなかった


(2)犯罪等の具体例


ア 対上官犯(暴行脅迫・侮辱・抗命ノ罪)既述の通り、昭和 17(1942)年は上半期の分析から悪質な対上官犯の増加が憂慮されていたが、実際に 2件の悪質対上官犯事件が発生した


1件は同年 10月、中支(中国中部)、湖北省應山県廣水鎭馬際 の輜重兵第 3連隊第 1中隊で発生した下士官、兵による中隊長代理及び中隊将校に対する、党与、暴行、傷害事件15(以下、廣水鎭事件という)であり、


10 『偕行 記事』特號 846號(昭和 20年 3月號)118頁
11 「事例集別冊第 7號」


12 『偕行 記事』特號 846號(昭和 20年 3月號)116、118頁


13 第1復員省総務課「支那事変大東亜戦争間動員概史(草案)3/3」(防衛研究所図書館所蔵)。(以
下「動員概史」とする)


14 原、安岡『日本陸海軍辞典コンパクト版(下)』246頁


15 防衛庁防衛研修所戦史室『戦史叢書 北支の治安戦<2>』(朝雲新聞社、1971年)329頁。『偕行 記事』特號 826號(昭和 18年 7月號)94-96頁


もう 1件は同年 12月 27日、北支(中国北部)、山東省舘陶県に駐屯する第 59師団第 53旅団隷下の独立歩兵 42 大隊第 5 中隊で発生した、兵による中隊幹部に対する用兵器、党与上官暴行、抗命、軍用物損壊毀棄事件16(以下、舘陶事件という)である


廣水鎭事件は、中隊長代理(第1小隊長)による過激な軍紀粛正に平素から反感を持っていた下士官 7 名、兵 32 名が共謀し、首謀者の曹長が週番士官として上番中に棍棒等をもって中隊長代理及び中隊将校に対して集団暴行を加えたというもので、首謀者の曹長は死刑に処せられるとともに、中隊長代理も職権乱用の罪で懲役 1年 6ヶ月に処せられた事件であった


また舘陶事件は、新編成部隊への転属要員を命ぜられた兵 6名が転属を不服として営内外において飲酒するとともに、週番下士官及び中隊付准尉に暴行、中隊長に暴言を吐くなどの行為を行ったうえ、中隊幹部を追って衛兵所を襲い銃を乱射、手榴弾を投擲して隊内を徘徊し、さらに隊外に出て乱暴狼藉を働いた事件であった。本事件については軍紀上、未曾有の事件として大問題となり、事件後、首謀者の 2名の兵が死刑に処せられるとともに中隊長は責任を取って自決し、大隊長、旅団長が重謹慎の処分を受けた。さらに大隊長、旅団長はもとより、師団長、第 12 軍司令官、北支那方面軍司令官に至るまで進退伺いを