斎藤美奈子解説「近代女子労働史からみた『富岡日記』」より


出典…和田英『富岡日記』ちくま文庫,2014/06/10
富岡日記 (ちくま文庫)


富岡と「女工哀史」は別なのか


フランスの工場に準じた富岡製糸場は就労規則もフランス式で,年季奉公のような日本の伝統的な労働形態と比べると,はるかに近代的でした.


(中略)


採算度外視で模範的な労働環境を目指していた富岡製糸場も,プリュナの帰国後は生産性重視の姿勢に転じ,1893(明治26年)年に三井に払い下げられると,労働時間の延長,等級制から出来高制への賃金体系の改変など,労働強化が図られています


横田英が在籍した官営時代だけを取り上げて


女工と聞けば『女工哀史』や『野麦峠』の暗いイメージを思い起こすかもしれません. しかし,富岡製糸場にはそのような雰囲気はありませんでした【自由主義史観研究会『教科書が教えない歴史』】

などとことさらに強調するのは,富岡からはじまる製糸労働史,ないし女子労働史の全体像を無視した態度にほかなりません


『富岡日記』を手にした私たちがいま考えるべきは,近代日本の資本主義発達史の中で,富岡製糸場がどのような役割を果たしたかです


富岡は日本の殖産興業にたしかに貢献しました. 富岡製糸場が導入し,日本式に改良された器械製糸は生糸の大量生産を可能にし,20世紀の初頭には天蚕生産の先進国だった中国やイタリアと日本は肩を並べ,やがて追い越すまでになります


しかし,日本経済の屋台骨を支える基幹産業の担い手が10代の少女たちだったことを考えるとき,一見模範的に思える富岡製糸場にも,後世の歪みを生む素地があったことは否定できません. 官営製糸場の開設に際し,政府が13〜25歳の女性を募集したのは,養蚕や糸繰りが女性の仕事だった伝統に加え,結婚前の娘たちは家庭内の剰余人員で,人件コストが低く抑えられたことも関係していたはずです. この後工女の低年齢化はさらに進み,英も【(西条製糸場の)糸場工女も富岡の如く11,12,13歳止まり位の少工女でありました】と記しています


(p.168)


(以下、略)