【海賊版】堀田善衛「「終戦」と「進駐軍」」

【1】


私は敗戦後二年間中国にいた。そのため、占領初期のことは間接にしか知らない。帰国していちばん驚いたことのひとつに、言葉の問題があった。[*1][*2]


敗戦、といわずに、終戦、という。占領軍、といわず、進駐軍、という。言葉を、特に或る時代を大きく特徴づけるような言葉を発見し、創造することは、それが個人によってなされたと時代それ自体の要求によってなされたとを問わず、ひとつの才能である。敗戦を終戦と云い換え、占領軍を進駐軍と云い換えるのも、勿論ある種の才能である。そしてそういう表現が出て来るということは、これまた云うまでもなく、どこかにそういう要求があったからである。


しかし、考えてみれば、終戦と云い、進駐軍と云いなんという、いわばニュアンスに富んだ言葉であることか。この二つの言葉を生み出した才能の、なんと隠花植物的であることか。敗戦とその結果としての占領という現実が、この二つの言葉によってなんとうまく、或は皮肉にも糊塗されることか。そこに私は日本人の最もいやらしい才能のひとつを感じる。そして言葉に関するこうした才能は、近頃で云えば再軍備論議をめぐる議会に於て、それこそ終始遺憾なく、十二分に発揮された。[(原文:遺憾なく、十二分に 傍点強調)]


終戦という言葉にしても、進駐軍にしても、これはどこから来たかといえば、私は天皇詔書から来たものと思う。詔書にはどこにも終戦という言葉はつかっていないが、また敗戦とも敗けたとも書いてないけれども、天皇、或は国体と称するものに対する、気がねから来たものであろう。負けたとは思いたくなく、また思っていただきたくないのである。終戦進駐軍も、言葉としては敗戦というエレメントを含んでいない筈である。何度でもいうようだが、この「終戦」及び「進駐軍」は、実に汲めども尽せぬ日本人心理研究の材料になろう。現実を糊塗することにかけては、天才的である。


政治と言うものの根拠の一つが、言葉にあることを考えれば、現実を糊塗する微妙な表現を案出することなどは当然すぎて話にもなんにもならぬのだが、しかし政治は、恐らく糊塗するために発明した言葉それ自体によってやがて復讐されることも必然である。


帰国して右の二つの言葉を知り、そのニュアンスの豊さに感服した私は、後にして来た中国で「終戦」がどう表現されていたかを考えた。中国では、それは「惨勝」と云われていた。

惨勝……これもまた実にニュアンスに富んでいる。しかし、それはまたなんと直戴かつ端的に中国の勝利の現実を表現していたことか。これは、日本は惨敗したが、中国は惨勝したという意であり、勝利は勝利でも、その勝利の内実の惨憺たる有様をよくあらわしている。それがどんな風な惨勝であったかは、戦後から今日にいたる中国現代史が物語っている。そしてこの惨勝を、惨勝ではない、勝利である。勝利だ、勝利だと高唱して現実の惨状を糊塗しようとした人々も無論いた訳である。しかし、それらの人々は、辿るべき運命を辿った。


中国は文字の国である、という云い方を、白髪三千丈式の誇張に於て理解していた私は、それを訂正せざるをえなかった。それはむしろ戦争以来の日本に適用さるべきであるかもしれない。




【2】


終戦進駐軍についての、もうひとつの驚きは、言葉に対して最も敏感かつ潔癖である筈の文学者のなかにさえ、右の二つの言葉を平気で使用している人が少なからずあったことである。つまり、言葉というものが、そのときどきの社会通念内至は風俗以上には出ぬものであり、それ以外に底をもたぬものと考えているのであろうと思われる。ヴェルコールの言葉に「困ったことに、理性は一切を証明することができる……一切を、そしてその逆をも」というのがあるが、ここで理性(レーゾン)を理屈或は言葉と置きかえてみよう。言葉が、そのときどきの社会通念内至風俗以外に基底をもたぬものであれば、まったく如何なることでも証明できる訳である。敗戦ではない、終戦である、占領軍ではない、進駐軍である、と云いつくらうことは出来ぬことではない。同一人が昨日と今日とでは、まるで違った、正反対な事柄をきれいさっぱりと立証してのけるといったことが起りうる。理屈は何とでもつく、というわけである。

こうしたことは、すべて言葉それ自体がもっている歴史を、血肉を無視し蔑視することからはじまる。字面だけで使用しているのである。そして、こういった例は、普通最も深く遠くものを考える人、ということになっているらしい哲学者などにさえある。さえある、というよりも度々ある、といった方がいいかもしれない。


私は自然科学者の書いたものを読むのがたいへん好きなのだが、その理由の一つは、考えてみると、科学者に於ては、技術語は別として日常生活のあかに染まった言葉が、実にかっちりと金属と金属とを連結するような工合に、清潔かつ最大限の考慮と計算を経た上で使用されていることから来る快感にあるようである。特に理論物理学のような抽象度の高いものになると、極度に知的な詩を読むような快感がある。ルイ・ド・ブロイの「新物理学と量子」という本がマリア・エレディヤの詩で終るところなど、実に気持がいい。


脇道へそれてしまったが、しめくくりはチャーチル氏の厄介になることにする。この伝統的政治家は、1942年12月、某下院議員がある種の官職の名称についてつまらぬ理屈をこね、変更したらどうかといい出したとき、「不必要な変更は戒むべきです。特に理屈が先行しているときは」と答えた。敗戦を終戦とすりかえ、占領軍を進駐軍にすりかえる。そこに心理的に先行している理屈と劣等感は、われわれの現実認識を誤らせるに多大の貢献をしたと思われる。そして政治は、こうした言語戦術を今後も駆使してゆくであろう。終戦進駐軍につぐ傑作は、警察予備隊であり、破壊活動防止法であろうが、前者は保安隊に変更され、近頃では、凶器を積んだ船のためには「艦」という言葉があるにも拘らず、連合船隊なるものまで出て来た。艦という言葉は、制限漢字のおかげでなくなったのであろうか。同一のものがそのときどきの社会通念に応じてくるくる呼び名を変更されてゆくのである。私は社会通念なるものを信じないが、これでは社会通念に対する破壊活動であるといっても過言ではなかろう。そして社会通念なるものさえが、政治がマス・コミュニケーションを駆使して製造する極めて無責任で底の浅い言葉によって形成される場合が多い。


言葉の世界に於ては、現実を無視し、或は糊塗するために、徒らに呼び名だけを口あたりのいいものにする精神ほど憎むべきものはない筈である。そこから一切の堕落と腐敗が始まる。そして堕落と腐敗の因をなしている連中が、倫理や修身をとなえ出したとしたら、また今日の現実が、現実を直視しないですます術にたけた人々によって導かれて来たものであり、かつ現に導かれているとしたら、いったい、われわれはどういう世の中に住んでいることになるのだろう。

*1:「敗戦」「占領」太字強調は入力者による

*2:東京新聞読者投稿http://d.hatena.ne.jp/dempax/20140906によれば敗戦の時点で「終戦」が準備されていたようだ