私たちは強くなった/『砂川の母と子らの文集』から(1)

『麦はふまれても/砂川の母と子らの文集』(全日本婦人団体連合会教育宣伝部 1956/01/30)から(1) p. 53-56


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私たちはつよくなった

(公務員主婦)ST(45歳)


私たち婦人がたちあがったいちばん大きな理由は、とよくきかれるのですが、理由よりも何よりも、自分の土地をあくまで守る、という信念が私たちをこのようにしたのだと思います。たたかっている間に、信頼している人や政府当局の人たちが与えた不信は、ますます私たち婦人をつよく団結させる原因となりました。



政府の役人のとった不誠実さは、私たちをほんとうに憤慨させました。死ぬか生きるかの問題で、何度も何度も陳情にゆきましたが、外務省や農林省の人たちは、いつも忙しいといって、言を左右にして会ってくれません。ある日、労働大臣に面会のため、秘書に事情を話したら、「いま大臣は病気で病院へいった」「病院はどこですか」「どこの病院だか分からない」という返事でした。



いったい秘書がこんなことでつとまるものでしょうか。「何の病気ですか」「分からない」「では薬袋をさがして病院名をみて下さい」というと、それも「薬はのまないが注射をうちにいった」というのです。大臣の居所をしらぬような秘書は、重大事態がおきた場合、責任をどうするのでしょうか。先日も倉石労働大臣に面会にいきましたとき、会議にでられる前の控え室でまっていると、大臣が急用ででかけられることになり、エレベーターにのられました。私たちもそれにつづいて、エレベーターの中で文書を手渡すよりほかありませんでした。二、三分でも実情をきいて下さるわけでなもなし、いかに忙しいとはいえ、誠意の一カケラもない態度だったのです。



次に地元選出の保守党議員連は、調達局と一緒になって、条件派のために会議に出て協力しています。また噂によれば多額の応援資金を出しているとか……。いままで一生懸命に保守党を支持してきた地元の人たちは、ほんとうに怒っています。町議会の分裂も前町長(若松さん)は自分の土地はぜんぜん接収に関係がないにもかかわらず、地元の意思に反対して条件派に協力しています。この人がアッセン役をつとめてくれるといいのですが、前回7票の差で町長を失脚したので、選挙が目当てで、このような動きをしているのではないか、という人もいます。全町婦人会も手伝いにきて積極的に働いていたのですが、町議会分裂後は、ひじょうに消極的になってしまいました。このような理由が、私たち反対派の婦人をより一層、ふんげきさせ、ますますつよく結ぶ原因になったと思います。



しかし、当局との激突を重ねてゆくうち、労組や文化団体はじめ、日本中の多くの人たちの応援は、この上もなく私たちの心をつよくしました。今はこれなら勝てるという確信の下にたたかっています。



私たち婦人はいま闘争委員会の企画にそって動いています。いままでの仕事としては、街頭カンパや懇談会に出席したり、また売店を開いて支援団体にものを安く売り、少しばかりの利益を闘争資金に繰入るなど、婦人の手でできることは全部やろうと、みんなで決議して、はじめは会議に男の方がいっていたのを、婦人が出席することにしたり、カンパなどは婦人部が積極的にやることになりました。闘争本部では町会議員8名が脱落しましたので、8名足りなくなりました。それで婦人5名位、のちには青年愛好会から2、3名でるようになりました。愛好会とは闘争がはじまってから新しく生まれた青年男女の会です。この人たちも本部にでてお客さんに説明したり、地元の婦人を呼んだり、現地を案内したりでとびまわっています。その他「心に杭は打たれない」としるしたマッチやハンカチを売っています。カンパの訴えも、私たちははじめ高いところへあがると、揚がってしまって言葉がでませんでしたが、座談会その他で体験談を話すのはなれてきました。





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