トラック島・慰安婦の抹殺措置(p.244-248)

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トラック島・慰安婦の抹殺措置


大根拠地の大きな慰安所のボスたちは,賄賂で結託した基地の主計将校と絶えず連絡をとっていた. かれらの賄賂には三種類の狙いがあった. (1)有利な条件を得るため (2)安価な軍物資を貰い受けるため (3)最悪の状態に備えて情報を得るため,つまりいちはやく逃げ帰るためである. ことに前線では,ただ事ならぬ事態が起こりつつあるだけに,なおさら賄賂は緊要なものとなった. しかし彼らは緊迫する戦況については,オクビにも出そうとしない.


アメリカ軍がマーシャル群島に大空襲を行い,マキン・タラワ両島の玉砕(1943年11月25日),クェゼリン・ルオット両島の玉砕(1944年2月4日)という切迫した危機が迫ったとき,トラック島のピー屋のオヤジは毎日,頻繁に基地の主計本部や司令部へお百度を踏んだという. 日本内地へ送り帰してくれと哀願するためである. うす穢ない根性の彼らは,つい先日までは「軍要員」の腕章をつけて,女たちの前で"愛国"をぶって,これみよがしに振舞ってきて,今度は"非戦闘員"だから日本へ返してくれと催促したのだ. 戦争と兵隊に売春をぶっつけて金儲けに血眼になっていた彼らは生命の危機に対しては極めて敏感であり,卑怯なほど小心翼々と立ち廻った. しかし,太平洋の島々の軍は,彼らの要求どおりに送り帰すはずもなく,次のように繰返したという. <わざわざ運び返すような閑な船が軍にはないというんだ. 女どもには親方のお前から,いざというときの覚悟をよく申し渡しておけ--潔く玉砕するンだ. たかが女郎じゃないか>と.


なかば軍の嚇かし,なかば本音であろう. そこでピー屋のオヤジの猛烈な賄賂の効き目もあって,周辺の情勢が切迫する前に,一部のオヤジと慰安婦だけが,強引に割当てられた輸送船と輸送航空母艦の船底にもぐりこんで引揚げることができた. その第一陣は『朝日丸』で帰国した(昭和18年12月). それは将校用の何軒かの女郎屋のオヤジと抱えの慰安婦であった. つまり,この基地でも普段,主計将校らに賄賂の出し足りなかった女郎屋だけが取り残されたのだ.(しかし,乗船した連中の一部は途中のサイパンに下船させられ,のちに玉砕の巻添えを喰った.)


壊滅的な大空襲が続き,眼玉の青い米兵が上陸すると聞いた日本人慰安婦たちは「うちら,カミソリで咽喉切って死んでしもたる」とつぶやき,ある女はシュミーズ姿で泣き崩れて「バカ,おトウさんのバカー,うちらだまして,こんな所へつれて来たりして」と慰安所のオヤジを口汚く罵った. おなじ慰安婦でも,朝鮮から騙されてきた女たちには,こんな泣き喚きすら洩らせなかったであろう.


トラック島は,アメリカ側では"日本の真珠湾"とか"太平洋のジブラルタル"と呼んだほど日本海軍の太平洋最大の根拠地である. この基地の安全確保をはかるために,開戦直後に日本軍はラバウルまで進んだ. ラバウルをめぐるソロモン海戦(消耗戦)も結局はトラック根拠地を守るためのものだった. トラックは大根拠地だけに,料理屋,慰安所が軒をならべ,第四艦隊の将兵は女体のサービスにひたりきっていた.


そして2月17日午前5時前,米軍機第一次70機がトラックに殺到した. 米軍の爆撃は九波におよび,延べ450機,トラック基地は早朝から夕方まで火と煙に包まれた. 翌2月18日,米機はトラック港上空を乱舞し,逃げまどう艦船をシラミつぶしに沈めた. 二日間の空襲で撃墜された日本機は約300機,ほとんどの艦船は撃破され,貯蔵食料2000トンと1万7000トンの燃料を詰めたタンク3個が炎上し,陸上だけで約600人が死傷した. トラックに近接中の輸送船団は1200人と共に海没した. トラック空襲と同時に,同島の東方にあるエニウエトク島(守備兵力3980)が艦砲射撃を受け,20日米軍が上陸,生存者34人を残して全滅した.


トラック島の天地を轟かす大空襲が始まると,慰安婦たちは裏山のパンの樹の茂みに掘られた防空壕に逃げ込んだ. だが,慰安婦のボスは,賄賂用の紙幣束を抱えて,かなり離れた滑走路へ向けて走りだしたという. そこにはいつでも離陸できるよう爆音を立てた逃走用の中型軍用機が一機,待機していたからである. 嘘八百で女を集めて"お国のため"ぶった女郎屋のオヤジという存在は,臆病にして狐のようにすばやく,根性が汚い. サイレンが鳴りだすと,自分だけは助かろうと必死になって飛行場へかけだし,そこが駄目だと知ると「あ,わしはここで死ぬのか,ああ,あ」と嘆声をあげ,さらに脱走の船を求めて軍港の方へ駆け出す有様である.


2月17日,18日は間断なく猛爆が繰返されたあとに,ついに島全体が炎に包まれた. 空も海も照明弾で青白く輝き,飛行場も要塞も高射砲陣地も,椰子とパンの巨木さえも,すさまじい轟音と共に吹っとび,すべてが燃え上がった. 施設の大半は灰燼に帰した.


慰安所の第一南月寮,第二南月寮,第三南月寮,これらの三軒が薄赤い夜空を背景に,なにか妖花の花の踊りのように炎上した. 女たちは避難防空壕にもぐりこんでいた. 防空壕は現地人を使って掘った,洞穴に近い粗末な構築物だが,100人ほどの女を収容できるほどの大がかりなものだった.


おなじく残存司令部とその兵隊は,辛うじて地下深くの防空壕の中にひそんで芋虫のように生きていた. このとき,軍の参謀と若い将校たちは,慰安婦らを足手まといと考えたらしい. こんどはトラック島が死戦場→玉砕の番と判断したからである. そして女たちを抹消する手段を講じたのだ. このときの模様を,トラック島の慰安婦について詳しく触れている西口克己の『廓』は,次のように描いている.


---引用者注:以下,原文では西口『廓』からの引用部分二文字字下げ---


「その空襲の途切れた合い間に,密命を受けた志田少尉は二名の兵をつれて,女たちの入った洞穴へ近づいていく. <いいか,問答無用だ. 決して言葉をかけてはならんぞ. 黙って始末するんだ. あいつらは素人娘ではなくて商売女だ. 敵が上陸してきたら何をするか知れたものではない---国辱だ. わかったな>


緊張した少尉のささやき声に,二名の兵士は無言でうなずいた. 靴音を忍ばせて壕の入口に接近した少尉は,もう一度軽機をかまえ直した後,するどく笛[笛→西口『廓』では口笛]を吹いた. 壕の内部に果たして女たちがいるかいなか確かめるためだった. 壕はしーんとしていた. つづいてもう一度,今度は低く,君が代を吹いた. 突然,それまで何の反応もなかった壕の中から,獣の悲鳴にも似た異様なすすり泣きが一せいにわき起こったかとおもうと,暗闇にもそれと判る防空頭巾を被った5,6人の女たちがバラバラと取り乱した姿で入口からとび出してきた. ダダダダ,ダダ--間髪を入れず,少尉の軽機が火を噴いた. ほとんど叫び声を上げる暇もなく,女たちはキリキリと体をもむような姿勢で,地面へぶっ倒れてしまった. 同時に,少尉も兵も,猛烈な勢いで壕の入口へ突進し,次の女が飛び出してくる前に,真暗な洞穴の内部へ向けて,盲滅法な機銃掃射を加えていた. 洞穴に反響して耳を聾するばかりの凄まじい銃弾の響きにまじって,とぎれとぎれの鋭い悲鳴や,うめき声がしばらくつづき,やがて気狂いのように撃ちまくっていた少尉がようやく引き金を止めたとき--ガランとした壕の内部には……文字どおり死の沈黙がしーんと凍りついたように立ちこめていた.


それでももだ用心深く,ものの2,3分間もジッときき耳を立てていた少尉は,このときになって初めて用意していた懐中電灯で素早く壕の内部を照らし出してみた.……露出した土壁にヤモリのようにへばりついて血しぶきを上げている女,荒削りのパンの木の支柱にすがりついたままガックリと首を折っている女,やや離れて一かたまりの肉布団のように折り重なって死んでいる女,抱き合ったまま死んでいる女,丸太ン棒のように転がっている女--およそざっと照らしただけでも, 6,70人もの女たちが完全に事切れて血まみれの姿で死んでいた. しかも,ふと少尉が気づいたことには,それらのすでに死骸となった女の何人かの片手に顔剃り用のカミソリがしっかりと握りしめられていたのだった. こうした種類の商売女にとっての唯一の武器ともいうべきその小さなカミソリは,……あちこちに投げ出されていた. <よし,任務完了,[西口『廓』原文では,ここに,"ははは"]こんどは俺たちの死ぬ番だ,引き揚げろ>[西口『廓』原文では,ここに,"昂然と"]いい捨てて[西口『廓』では"いい捨てた"]少尉と二名の兵士は駆け戻って行った.」


--引用者注:西口『廓』からの引用終り--


だが,トラック島に,予期された米軍の上陸作戦はなく(同時に"玉砕"という名の悲劇もなく)素通りする形になった. トラック島の慰安婦の悲劇は,決してこの島に限ったものではない. いたるところの島の女たちが,この種の仕打ちに遭わされたのは確かである.[ここまでp.247]


トラック島から,いちはやく日本へ引揚げてきた慰安所経営のボスらは,女たちの人命は念頭に置かず自己の金銭欲から絶えず嘆いたとか. <わしはトラック島じゅうゲンくそ悪い島へ,一生かかって貯めこんだ銭を捨てに行って来たようなもンや>と. これが彼らの,よだれまじりの愚痴だったそうである.


米軍はトラック島を素通りして「サイパン」を襲ったがサイパン島での女の悲劇について一言触れておく.


サイパン島では,米軍が上陸し,残存日本軍が最後の斬込みに突入する前に,日本婦女子の多くは"入水自殺"を遂げた. 入水自殺とは,サンゴ礁の水際に,あたかも水浴でもするかのように黒髪を後ろに垂らして深い方に進んで海中に没していく. そこには子供を抱いた母親,うら若い娘,おかっぱの少女も混じっていたという. 米軍に捕われて辱しめを受けるよりは,死を選んだものである. これは,日本軍隊の戦地における婦女強姦の,自己投影ともいうべき行為である. それは直接または間接的に日本軍から強いられたともいえる. この入水自殺は数日も続き,その姿を沖に碇泊する米軍が写真に撮って『ライフ』誌に掲載し,日本人の集団自殺を珍しいニュースとしてアメリカ全土に流布した.


ルソン島・死の山中彷徨


[以下,省略]【出典:金一勉『天皇の軍隊と朝鮮人慰安婦』(三一書房 初版1976/01/31 2刷 1976/04/30)p.244-248】
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