黒羽清隆『十五年戦争史序説』からの抜書

実のところ日本政治秩序の最頂点に位する人物の責任問題を自由主義者やカント流の人格主義をもって自ら許す人々までが極力議論を回避しようとし,或は最初から感情的に弁護する態度に出たことほど,日本の知性の致命的な脆さを暴露したものはなかった.


主権者として<統治権を総攬>し,国務各大臣を自由に任命する権限をもち,統帥権はじめの諸々の大権を直接掌握していた天皇が--現に終戦の決定を自ら下し,幾百万の軍隊の武装解除を殆ど摩擦なく遂行させるほどの強大な権威を国民の間に持ち続けた天皇が,あの十数年の政治過程とその齎した結果に対して無責任であるなどということは,およそ政治倫理上の常識が許さない.


天皇個人政治的責任を確定し追及し続けることは,今日依然として民主化の最大の癌をなす官僚制支配様式の精神的基礎を覆す上にも緊要な課題であり,それは天皇自体の問題とは独立に提起さるべき事柄である(具体的にいえば天皇の責任のとり方は退位以外にはない).


天皇のウヤムヤな居据りこそ戦後の<道義頽廃>の第一号であり,やがて日本帝国の神々の恥知らずな復活の先触れをなしたことをわれわれはもっと真剣に考えてみる必要がある.【丸山真男「思想の言葉」『思想』1956年3月号--『戦中と戦後の間』1976年--黒羽清隆『十五年戦争史序説』(三省堂 1979/09)p.285-286より孫引き,強調は丸山真男,原文では傍点】

天皇の戦争責任』[井上清]は,天皇の主体的なリーダーシップあるいは政治的ヘゲモニーについて,その実現例・成功例の挙例にやや傾きすぎており,その非実現例・不成功例の認定・分析を通じて,「正の例」の史的特質をうかびあがらせる点での不十分があると思われ,また,D.バーガミニの『天皇の陰謀』は「裕仁」とその「秘密閥」("cabal")--永田鉄山,小畑敏四郎,岡村寧次そして東条英機ら--が1920年代(つまり「裕仁」の摂政時代)から首尾一貫して「北進論」(対ソ戦争)に対立し,「南進論」(東南アジア征服・対米戦争)のコースを歩みつづけたという必然性論ですべてを割り切りすぎている点で,それぞれ,私には,不満な側面をもつ.


[中略]


バーガミニ氏は,その「盧溝橋事件」評価において,「裕仁」が一貫して--かつ用意周到に--日中戦争を企画し,予定し,実行したというプロットを樹立し,逆に対ソ戦争の方向に一貫して嫌悪ないし否定的姿勢をしめしたと論じているが,それは日独伊三国防共協定に,ドイツ・イタリアがイギリス・フランスと交戦したときに日本が参戦するというふくみをもたせようとした「防共強化問題」に対する天皇のきびしい抑圧的姿勢--逆に,この協定の反ソ・「防共」政策という核心についての天皇の反対・疑惑・逡巡をしめす史料がほとんどないこと--からみても,成立しにくい.


とまれ,このようにして,大元帥は,十五年戦争を「統帥」したのである.【黒羽清隆『十五年戦争史序説』(三省堂 1979/09)p.273-274】