全国から≪○○人斬り≫報道記事を集めよう

日本刀/銃剣 関連記事:東京日日新聞(千葉版)1937年7月-12月記事より

今日は 小野賢二さんからのボランティア募集よびかけにこたえて, 某市立図書館のマイクロフィルム[1巻]を一日中眺めていた.


調査範囲: 東京日日新聞=現毎日新聞 千葉版 *1 今日はまず 1937年7月から11月までの千葉版と12月の房総(1)版をざっくりと眺めた. 以下抜粋集["●"は判読不明/"[]"で囲んだ文字は間違いの可能性高い/旧字を新字へ/漢数字を英数字にした箇所あり]



1937年9月9日 房総健児の誇/思ひ出の血涙記/鬼神を凌ぐ肉弾戦/重傷に屈せず敵兵二名を斬る/敵前上陸 高木兵曹の殊勲

数名がどつと敵の塹壕に飛びこみ近寄る敵をめつた打ちに打ち殺した自分はこの時敵兵二名を刺し殺したことを覚えてゐるが間もなく出血のため人事不省になつた,このときすでに敵は後方から続く陸軍の猛襲にたまりかね多数の死体を残したまま退却したあとで気がつくとともに部隊長の倒れてゐるところに駆けより無理やりに背負って後退した.【抜粋】

1937年9月18日 偉なる哉勇姿/秋風颯爽!膺懲の剣/○○部隊勇躍壮途へ/万歳歓呼の嵐あびて

我々は唯祖国のため人類平和の敵に対して敢然膺懲の剣を揮うだけです【○○部隊長挨拶から抜粋】

1937年9月22日 北支戦線で傷つく/三勇士の武勇談/○○陸軍病院にて

月明かりの夜だつたのでわれらは嶮岨にそそり立つ敵陣地の●んだ山岳を腹匍いにじりじりと登つていつた. 敵前300メートルで突如機関銃の乱射を受けたので小癪な!それ突撃と敵陣に飛び込み日本刀と青龍刀の一騎打ちが始まつたのだが横合からいきなり俺に拳銃をつきつけたものがある. 何糞と飛び込んだ瞬間バンと右腕をやられ同時に青龍刀をふつて来たんだが傍の部下がそ奴を胴切り,どつと血[煙]を揚げて倒れたよ【藤田薫大尉談話から抜粋】

1937年9月23日 敵陣地に斬り込み/壮烈な最期遂ぐ/空軍の華・尾方少佐

-- 略 --

1937年9月24日 満州国政府から/匪賊を大根斬り/片桐中尉奮戦の情況

身に散弾を受けすでにその塲に倒れんとしたがひるまず勇を皷し同僚宮崎君の名を呼びつつ中庭に飛び出すやここでも侵入した敵軍を射つ,斬る,突くの勇猛果敢な肉弾戦を敢行してゐるうち遂に最後に放つた敵の一弾が頭部に命中壮烈な戦死をとげたものである【満州国政府報告より抜粋】

1937年9月28日 青龍刀糞喰らへ!/日本刀の斬れ味/戦傷の部隊長から切々の手紙/渡辺一等兵果敢な最期

われわれ最前線の一隊は敵の猛射を浴びつつ突撃を敢行仕候,敵は頑強なる青龍刀部隊にしてここに猛烈なる彼我の格闘演ぜられ候,敵は精鋭なる日本男児の銃剣に抗し得ず多くは刺殺せられ「われの勝利」と思はれるに至るや直ちに第二線陣地よりする敵の一斉射撃はわれわれの頭上を覆ひ申候,最後まで格闘を継続しありし春雄君はこの時 正面 よりする小銃弾に頭部を貫通せられ突き殺したる支那兵の上に折重つて倒れ申候南無三!【部隊長手紙より抜粋】

1937年10月22日 敵の屍踏み越えて/進む戦雄々しかりけり/詩人 部隊長の寄す戦況

天地も裂けむばかりに打ちはたく我砲兵の勲を思ふ

歩と砲と刀いみじく協せつつ遂ひに乗り取る敵の望楼

雄雄しくも敵の砦に突入し敵兵四,五も斬る勇士あり【戦塲 抄】

1937年10月23日 出征勇士に贈る日本刀

-- 略 --

1937年10月24日 軍刀の鞘を拂ひ/敵陣地に突撃/平野部隊長壮絶の最期

-- 略 --

1937年10月26日 戦車体当たり城門を破壊/火達磨二勇士の奮戦/北支の雄・今田部隊[中略]砲兵部隊の進撃/敵前250米まで迫る/五勇士名誉の戦死傷[中略]伝家の宝刀/見事物を言ふ/大和魂の権化・菅谷中尉

倅がそんな大手柄を立てましたか,出征する時奥本平作の刃渡り二尺五寸の伝家の宝刀を軍刀に仕込んで必ず目覚しい働きをしてくるといつて大元気で出かけました,さてはこの宝刀にものをいはせただらうと思ひます,何にしても倅の手柄は私の肩身を広くし折角御期待下さる郷党の皆さんにも顔向けができるのでこんなうれしいことはありません【父清太郎氏は語る】

1937年10月30日 敵塹壕に躍り込み/20余名なで斬り/武勲赫々猛牛三勇士

[中略]三日間部隊を離れ孤立し乍ら頑敵掃滅に赫々たる武勲を立てた三勇士がある[中略]同部隊は大塲鎮占拠の際25日同地左側トーチカ陣地目がけて猛攻を加へたが,前記三勇士は敵塹壕に飛込み白兵戦で20余名の敵兵を仆した しかもなほ前進しつづけ三人一体となつて頑敵を急追したが振返つて見れば友軍の影が見えず,ここで三勇士は決死の敵陣突破を試み部隊を離れながら頑敵を撃破し飢と戦ひながら三日間さ迷ひ27日遂に行軍中の部隊を探し当て戦友と感激の握手を交した

1937年11月6日 颯爽・軍刀片手に/下田准尉と本紙上で対面

-- 略 --

1937年11月10日 見事・支那兵六人を/銃剣で芋刺し/鶴舞出身の鳥海上等兵/秋雨煙る日/福井部隊訪問

[中略]福井部隊を訪ねると部隊の前に連絡兵が一人ゐる『やあ東日さんですか,僕は支那兵を六人この銃剣でやつつけましたよ』と鼻高々と語る,市原郡鶴舞町出身の上等兵鳥海義男君だ,王家宅の戦闘で,友軍のまつ先に起つて突撃し塹壕にゐた敵兵六人を芋ざしにやつつけ,更に捕虜五人を縛つてきた勇士だ. 腰間の麻縄を見せて『壕に飛び込んでしまふと支那兵は弱いもので,機銃を棄て両手をあげながら「カンベンして下さい」と日本語でやつてくる,この時に縛りつけるのがこの麻縄ですよ,まるでお巡りさんですね』と愉快に笑ふ,福井部隊長は郷里から届けられた新聞に読み入つてゐたところ『これは東日の千葉版ですよ,うちの家族の写真がのつている』と猛将も眼を細くして写真に見入つてゐた『部隊は農村と漁村の出身者だから堅忍不抜,他の部隊のことを引き合ひに出すのはをかしいが勇猛で名を取つてゐるのだ,李家宅では多くの犠牲者を出したが,この償ひはきつと取つて見せるゾ』と温顔のうちにも堅い決意を見せた,そこへ黒田少尉がやつてきて『いま作つて見ましたよ』と『福井部隊上海征途の歌』と題する次のやうな軍歌を見せてくれた

『福井部隊上海征途の歌』(黒田少尉陣中作)

1. ああ江南の夜は更けて,星かげ空に冴ゆる頃,静寂を破る銃砲声,これこそ仇なす敵兵ぞ,●●一閃膺懲の,正義の秋水鞘を飛ぶ

2. 時は九月の末つ方,わが作戦は定りて,堅[晶]須宅崇明塘,攻略せよとの命下る,将兵とみに意気昇り,敵陣近く攻め寄せぬ

3. 剣戟[摩]して鉄火散る,敵の一線乗取れば,さしもの敵兵すべもなく,遁ぐるを我は追討ちに,射ちかけ射ちかけ追撃す,刃を拭ふ暇もなく(以下略)

1937年12月4日 敵兵数名を血祭り/遂に生命線を越ゆ/服部伍長愛弟に訓す

[中略]工兵隊は勇敢にも爆薬に点火,それを抱いて敵陣に突入して投げ込む,爆弾三勇士に優るとも劣らぬ決死作業である,陣地は木葉微塵に砕かれ敵兵が空中へ吹き飛ばされて痛快だ,その中へわが部隊が突入,片つ端しから撃ちまくり,突きまくり敵を完全に全滅させ,さしも堅固を誇る陣地を占拠,日章旗を高く掲げ万歳を高唱した,自分も戦闘中機銃が故障したので白刃を振つて敵兵数名を血祭に上げた,幾多戦友が彼等のため戦死したかと思ひ斬つて斬つて斬りまくつた[以下略]

1937年12月14日 血を呑む愛刀祐定/敵20数名撫斬り/伊藤中尉の武勇伝

11月13日○○名の隊員と共にクリークを船で白鶴港へ進撃する途中村落に陣地を構築中の約300名の敵と遭遇しました. 咄嗟の間,しかも小銃は○挺しかなく全滅の危機に直面したがかくなつた上は斬り死するまでだと愛刀祐定を抜き!!斬り込み!!の号令をかけて群る敵の中へ突入した, 日頃鍛へた腕で19人まで斬つたのは覚えてゐたがあと何人か判らぬ,部下の緒方軍曹は23人まで斬つたが流石に日本刀は折れ壮烈な戦死を遂げた. そのため敵は度[胆]をぬかれて遂に遁走し大勝利を博した(後略)【伊藤中尉が家族に宛てたはがきより】

参考

小野賢二 編・解説【資料紹介】報道された無数の「百人斬り」(日本の戦争責任資料センター『季刊戦争責任研究』第50号2005年冬号 p.74-83)

小野賢二 「○○人斬り」報道を読む 2005?/12/26

小野賢二 「○○人斬り」報道を読む 2006/05/24 高裁判決報告集会配布講演資料

*1:千葉版は月曜日を除き週6回各1頁/1頁は14段組みで下の2段は広告. 1937年12月より自動車運輸に切り替わり 房総(1),房総(2),千葉の3地域に分かれる