日本共産党と市民


米軍占領下の広島の原水禁運動については本誌一月号の拙稿「『ヒロシマ』と『東京宣言』」でふれたので,重複を避けて別の角度,共産党と市民のかかわりあいの面から見てみることにする


一見がんじがらめの弾圧体制下で,原爆反対の声がどのようにして結集され行動になっていったかはきわめて教訓的であり,少しくだけた言い方を許していただくなら実に興味深い問題である


数年前であるが,東京から来た知人に占領下の広島の運動について話したことがある. 被爆写真を街頭展示してストックホルム署名を集めたことなどを話しているとき,その人から二つの質問が出た. 一つは,あの時期に被爆写真がそれも四つ切りくらいに引き伸ばした写真がどのようにして手に入ったかというものであり,もう一つは,あの厳しい時代になぜ弾圧もされずそんなことができたのかということである. 私は一瞬,虚をつかれた思いがしたが,あれこれ記憶をたぐりながら話しているうちに,原水禁運動の成り立ち,そこでの共産党と大衆との関係などを改めて見直させてくれたその鋭い質問に感謝した


話はこうである. 写真はいろいろな経路で集まってきた. 共産党が原爆反対をいっているのであそこに持っていけば役立つのではないかというのもあったようだし,胸にたまっている原爆への怒りを共産党なら代弁してくれるのではという期待をこめたのもあった


朝早く党事務所の玄関に投げ込んであったこともあるし,党員がどこからかもらってきたものもある. 県北部の三次市では,ストックホルム署名を集めていた青年に「原爆がどんなものか見せてあげよう」といって提供してくれた写真館の主人もいた. いずれも,出所は絶対あかしてくれるなという条件つきであるが「共産党ならやってくれる」という信頼感,共産党が原爆反対の活動をしていることへの期待と支持が共通していたことはまちがいない. だからそれらの写真を活用しているとまたどこからともなく新しい写真や激励の手紙がよせられるのであった


1949年10月2日の平和擁護広島大会が緊急動議という形で「原爆禁止」を公然と決議したのもそうした空気の反映であるし寄せられた写真の何枚かが1950年6月9日付の共産党中国地方委員会機関紙『平和戦線』7号(4万部発行)に峠三吉の詩や「再び原子爆弾を繰り返すな全愛国者は平和戦線へ!!」という主張とともに掲載され,写真提供者の期待にこたえ原爆反対の世論を高めたのである


市民の願いを代表して党が決起し,党の決起を見て市民が結集するという循環が作り上げた力,それが占領下の広島での原水禁運動となったのである「なぜ弾圧されなかったか」というもう一つの質問への回答もここにある. 事実,街頭行動をやっていると何人かが自発的に防衛にあたってくれたことも珍しくない


共産党の活動と市民の感情を,自分が勝手にえがいた対立の図式にあてはめ,原水禁運動の生成を自然発生的な市民運動という神話にしようとする試みの虚偽をこれらの事実は鮮かにあばいている. この事実を直視することのできないものには,やはりそれなりの理由があるのである. 一例をあげよう


『国民の中の一部分子は『戦争反対,原爆反対』のまことしやかな美名のもとに,侵略者戦争挑発者に奉仕しようとしていることは誠に嘆かわしいことといわねばならぬ. 広島市警察本部がきょうの平和祭に名をかるこれら不純分子の不穏行動を察知して(筆者注…実際は占領軍の指令で)五日以降の集会,集団行動,示威運動を取り締まるの挙に出たのも,公共の秩序保持とその福祉のために誠に当然のことであり,反省と祈りに敬虔な一日を送ろうとする広島市民にとってもまた有意義な措置といえよう』


【『中国新聞』1950/08/06 社説】


この同じ8月6日,共産党は自覚的勢力を結集して二万枚のビラを全市でまき街頭集会を開いた. その中の一人として参加した共産党員詩人峠三吉の目にうつった8月6日は次のようなものであった

ひらひら ひらひら


夏雲をバックに


蔭になり 陽に光り


無数のビラが舞い


あお向けた顔の上


のばした手のなか


飢えた心の底に


ゆっくりと散りこむ


誰かがひろった


腕が叩き落とした


手が空中でつかんだ


眼が読んだ


労働者,商人,学生,娘


近郷近在の老人,子供


八月六日を命日にもつ全広島の


市民群衆そして警官



詩「1950年8月6日の広島」(傍点強調=太字は筆者)


傍点(太字)を警官のところまで引いたのは,当時の自治体警察のなかには,被爆者であったり家族に被爆者を持つ警官が多数おり,原爆反対の運動に表面はともかく内心では共感をよせる者が少なくなかったし,峠三吉もそうした目配りを忘れていないからである


ところで,同じ8月6日に同じ広島市民を口にしながらまったく異なる二つの立場があったことがここにはくっきり示されている. 市民と政党の対立でなく,原爆にきっぱり反対するか権力に順応するかの相違として. この相違こそ決定的であったし,真に革新的な政党の奮闘こそ広範な市民の結集を可能ならしめたことを歴史は証明しているのである


あれこれのやり方で原爆投下を是認させようとしてきた勢力と,そのもとでなお原爆反対を叫ばざるをえない市民のエネルギーに依拠して突破口を切り開いてきた前衛党,この対決軸を否定することは歴史の誤認というより犯罪的な偽造に通じている. 市民運動の名による政党排除の策動は,そうした偽造のうえにのみ存在するのである