原爆投下をめぐる対立


最初に断っておくが「市民」の名で共産党を排除しようとしている勢力と同じ次元で論争しようというのではない. つまり,市民と政党を対立関係に置く誤りを明らかにし,その両者の正しいかかわりあいによって原水禁運動が生まれ発展したヒロシマの事実を語ろうというのである


政党排除を主張する意見の致命的欠陥は,こうした事実を率直に認めることができないところにある. すなわち,原水禁運動が政党の政策や行動と無関係に,自然発生的な市民運動として始まったという,事実に反する前提が論拠となっているのである. しかも,その誤った前提が善意の無知や錯覚によって生じたのでなく,否定しようのない歴史の事実を隠すことでつくられてきた. なぜかくすのか? いやなぜかくさざるをえないのか? 問題を解くカギはそこにひそんでいるのである


本題に入るにあたってふれておきたいことがある. それは,支配者たちが原爆投下の事実をどのように扱ってきたかということだ. 原爆という無差別大量殺人兵器の使用が,第二次世界大戦後の世界支配をめざすアメリカ帝国主義の「政治的行為」であったことはここで改めてくりかえさないが,投下直後から「政治的」に利用され,それが原爆反対の声の結集を妨げてきたことを見ておくのは決して無駄ではないからである


原爆投下の翌日8月7日に県知事が出した「諭告」はこうのべている「仇敵に報ゆる道は断固驕敵を撃砕するにあることを銘記せよ. 我等は飽迄も最後の戦勝を信じ,あらゆる艱苦を克服して大皇戦に挺身せむ」と


そして敗戦を迎えて一週間後の各新聞は「蚊一匹残さぬ残虐ぶり」「年間は生物の生息不能」「この世の生地獄」などと原爆批判キャンペーンをいっせいに展開した


それから数日後にアメリカ占領軍が進駐,9月にプレス・コードが出されると新聞は沈黙した. 6年余にわたる原爆批判弾圧時代の始まりである


この間の事情を,広島県発行の『原爆三十年』は次のように解説している「プレス・コードまでの一連の原爆報道の特徴は,原爆被害を大々的にとりあげることにより,終戦までにおいては報復心を煽り立て,終戦後においては,アメリカの戦争責任を追及することにあった. またそうすることによって,国内的には,日本の敗戦の責任を原子爆弾に転化し,対外的には,日本の戦争責任を不問に付すことにあったといえよう」と私もこの見解に大筋で同意できる


原爆の非人道性が,人類の未来への警告としてではなく「鬼畜米英撃滅」の戦意高揚に利用され,ついで戦争責任の回避や日本軍国主義の免罪に利用されたあげく,被爆の実相すら永久に闇に葬られようとしたのである


「こんな生地獄を二度とくりかえしてはならない」という民衆の願いの対極で,支配層が原爆を自己保存の手段にしてきた一ヵ月余にも,無数の人びとがつぎつぎに悶え死んでいったのである. ついでに言っておくと,アメリカ原爆調査団は9月上旬に「広島や長崎では死ぬべき者は死に,現在放射能の余塵のために苦しんでいる者は皆無」と発表している. プレス・コード指令の2週間も前のことだが,被爆40周年の現在も深刻な問題となっている原爆後遺症という「事実」すら強権的に消そうとしたのである


少し長くなったが,原爆をめぐってどのような対立が誰と誰にあったのか,そのなかで原爆反対の運動が形づくられていくにはどんな条件や活動が必要だったかが以上の事実によってもわかるであろう. つまり,こうした状況に誰が順応し,誰がこの状況打開のためたたかったか,そこが問題なのである