運動史研究会『運動史研究』No.6 福永操 「'スバイ査問'前後」からの抜粋


日本共産党の五十年』をはじめ,日本共産党から出された党の歴史はいずれも,戦前の日本共産党の活動は1935年3月の袴田氏の逮捕まで継続し,この袴田逮捕によつて1945年敗戦まで中断された,というふうに書き,袴田氏を「戦前の最後の中央委員」であると書いている[*1]


しかし1934年4月はじめの秋笹逮捕以後は, 袴田氏は残存したただ一人の中央委員であった. だから考えてみると『党史』の主張はおかしな話である. 日本共産党はもちろん, どこの国の共産党の規約にも, ただ一人きりの「中央委員」によって「中央委員」が成り立つことをゆるすような規約は存在しない. 中央委員会が成りたたなければ, 中央委員も成りたたないはずである. 他の中央委員が逮捕されていなくなってしまったら, 袴田氏は当然の第一の義務として出来るだけ早く新しい中央委員が選任されるかまたは補任されるようにして中央委員会を再組織しなくてはならないはずであった. 袴田氏は1935年3月の彼自身の逮捕まで一年間もの長い期間があったのに, この義務を放置して, 中央委員の補充のための努力をした形跡さえもない


実のところは, 上記のように34年4月はじめの秋笹の逮捕後まもない頃から, 袴田氏は残存していたすべての党員たちや党の基礎組織や機構から連絡を切られて, まったく孤立していた. 現在入手できた諸資料から判断すると, 5月頃から以後, 袴田氏を信用して彼と協力した党員は(党経歴といえるほどの活動経歴をもつ党員としては)袴田氏の当時の細君であった田中うたさんよりほかにはいなかったらしい.

*1:日本共産党の八十年 1992〜2002』日本共産党中央委員会,2003/1/20【】