二階堂園子さんが来て
私が1952年8月に宮崎に転勤した以降に「松川」とかかわりをもったのだと思います
保釈になった二階堂園子さんがきたとき,早朝でしたか,職場に招いて話をうかがったこと,二階堂武夫さんからの返事の手紙を職場で回覧のあと従組機関紙にのせたことなどが,始まりのようです. 今,53年11月の「職組ニュース」に「真実は壁を通して-松川事件の公正裁判を希う」と題して,約半頁をうめています. 私たち職場の有志をつのって,郵便料や便箋代にも事欠くときき,カンパと激励のために出した便りと,それに対し11月5日の判決日が12月22日に延ばされた不当を訴えた二階堂武夫さんの返事の便りを紹介しました. その紹介記事で,私はかいています「…今から四年前,三鷹事件の名にかきけされて多くの人の注目をひいてはいなかったこの事件が,四年間にわたって真実を訴え続けてきた若い被告たちの手によって,私たちの共通の問題として意識されて…ことに目頭をあつくしているのは私だけではないと思う. 被告たちはいま,真実という共有財産をくるしみにたえて守りぬいてきた. 真実というたった一つの紐を通じて被告たちは多くの友情を育ててきた…同じようにいま真実を守って出会うことの出来たこの作家(広津・宇野)と労働者の友情をみたとき,日本の正義のために,また私自身のためにどんなによろこんでいいだろう…今夜は『真実は壁を通して』を読む…三菱銀行の高田馬場支店のA子さんが理由もなく馘首になったと伝えられたが,また浅草支店でも女子行員が馘にされたそうだ. あれやこれや毎日ぼくのまわりにおこってくること. それを「世にも不思議な」と感じとり,これにイデオロギーなんか抜きにしてたたかってゆける人. そんな人を私のまわりにたくさんもちたい…」