だまって見ていられないと妻が

この[1953]年の12月22日第二審判決がありました. 私は1954年結婚しましたが,その翌年1955年6月3日三鷹事件最高裁判決の際に従組ニュースに次のように書いた「…家に帰ると妻が,三鷹事件の判決が出たね,ひどいね. という話をすぐ話しかけてきた. 彼女もひどく憤慨していた. 一体,社会党共産党は何故訴えていないのだろうか. ぼく,やっているんだけれど,新聞がとりあげないから,ぼくたちにはわからないのだと思う. 彼女は,どうしてみんなだまっているのだろう. だまってみてはおれないじゃないの. ぼく,じゃ何かしようか,という話になって抗議文や激励文,投書をおくろうということになった. 夕方7時ごろから10時頃までかかって,ぼくが,(田中最高裁長官への)抗議を…かいた. ぼくの田中裁判長への抗議文には,あなたこそ法の名を借りた殺人者ではありませんか,とかいた. それをみた彼女は『まだなまぬるい』といった」A紙,N紙,NHKへの投書はいづれも没となった. その頃,徳永直のかいたパンフ『この人々を殺すな』の他『真実は壁を通して』,『中央公論』,『世界』などで松川について読んでいた.


当時の『週刊朝日』特集号が,今手許にないが,そう批判的に読まず,都合のよいように読むのに急で,それほど憤慨していなかったようです. 阿部市次,鈴木信両氏の批判を今読むとひどいものだったようですが


転勤で1957年夏,仙台にいってはじめて直接松川運動と関係を持つようになり,今に至っています


当時殆どの被告が宮城拘置所にいたのですから,私の職場でも松川のことを皆よく知っているのだろうと思っていたのですが,そうでなくてがっかりしました


その年の12月下旬のある日曜日,東京千代田の守る会の人たちが,獄中被告面会にきたとき,宮城松対協でそのことをきき,一緒に面会に行きました. 寒い風の強い日でした. 妻と春生まれたばかりのこどもを連れていったのですが,面会所前で待ったときの寒さでこどもが風邪をひいて困ったことを覚えています. その時,町田さん,山口さん,岸さんといった守る会の活動家に初めて会いました. この頃から,当時宮城松川事件対策協議会の人とつながりのあった職場の友人と一緒に,個人的に少しずつ松川のお手伝いをすることになりました.