だが,耐えねばならぬ時がある
6月16日の日記「5月の終りから6月のはじめにかけては,僕にとって大きな苦しみを経験した期間であった. 僕はこの期間に本当に「耐える」ということを僕は僕なりに覚えた. …6月4日に参議院の選挙があった. そしてあのような結果だった. 6月6日,共産党中央委員24名追放の発表,ついで翌日『アカハタ』編集局関係17名の追放の発表,それとともに吉田,植田等の共産党非合法化の意図の明言,…5.30人民大会における8名の青年の検挙,6.3ゼネスト,その前のマ元帥の反共声明. …6月6日の措置が僕に与えた影響はやはり大きなものであった. 将来のすべての自由,人権の奪い去られた暗黒時代を予想せざるをえなかった
6月7日夜の民科の会合…やはり凡ての民主主義運動の弾圧を予想しての話がかわされた…. 県庁でも人事課の連中が首切りの準備に目ぼしい人間の調べをやっているということもきいた. 僕はやがて「街頭に投げ出されるかもしれない」という覚悟をしないわけにはゆかなかった…」
ちょうど,私の結婚問題で父とのトラブルがかさなった「耐えるということは苦しいことだ. だが耐えねばならない時がある,ということを僕は最近知った…つよい抵抗にうらづけられた,耐えるということ,それを僕は…どんなにか苦しいものだということを知りはじめた. 未来に対する確信が,僕の心を支えてくれる」そう同日の日記の終りに記しています
マ元帥『アカハタ』1ヶ月停刊指示,南北鮮軍衝突,民主的出版社約社に対する弾圧措置の計画などを記したあと,6月27日,「重苦しい時期-抵抗」と題して詩を一編日記にかきとめています. この年,私は,従業員組合,民主主義科学者協会,地域の合唱団等と忙しくうごきながら,重苦しい重圧にようやくがんばれそうになっていたようです. この頃,三鷹と松川の労働者たちが,獄中で苦しい闘いを続けていました. 8月11日,三鷹は竹内[景三]被告を除き無罪,12月6日松川は全員有罪のそれぞれ一審判決がありました. 1951年2月8日の日記「ダレスが日本にやってきてすでに,いろいろの形で,単独講和と再軍備へ,占領軍の講和ごの駐屯などと話は進められているようだ. すでにジャーナリズムは大量の宣伝である. それだけではない. 『平和の声』の発刊停止,ついでのその配布関係者,全国で名をこす人々の検挙」翌2月9日の日の日記「市交通の組合で除名問題で職場大会を次々にひらいているとのこと…追放が組合の手で行われようとしている…」
この年上京の折参加した芝のメーデーと当日夜の文化祭は,ポリ公に取り囲まれた中で行われました. 次の年の血のメーデーを予想することは出来ませんでしたが,圧迫の強い時期でした. 私の日記には,圧迫感,忍耐,抵抗,重苦しさ,孤立感…が,しばらく時日をおいては,くりかえしかきつらねられています. 民主的な運動の分裂の時代,権力の狂暴な弾圧の時代でした. その頃,6月5日国鉄労組新潟大会で平和三原則が採択される模様をラジオで聞いた時の,私たちの感動は今も忘れられません.
歯をくいしばるようにすすめられてきた運動が,やっと切り開いたものでした.
重苦しい時期にやっと朗報を得た気持でした. 松川の仲間たちは,私たちと比べものにならない苦しい日々を送っていたのだと思います(以上鹿児島にいた時期)