なごや松川守る会『松川の火だね』から

「松川」と私・妻・長男と

    石川利夫



松川事件」に関心を抱いてきたのは,比較的に古かったような気がしますが「松川運動」に私が参加したのは,そう早い方ではありません


あの1949年頃からの私自身をふりかえって,「松川」とのかかわりあいをしっかりたしかめてみたいと思いながら,なかなかできませんでした


1949年11月5日の日記「三鷹事件第一回公判の記事,湯川博士ノーベル賞授賞の記事-朝の新聞. 三鷹事件,ドイツ国会放火事件と同様に,後になって支配階級の陰謀が暴露されても時すでに遅い…田中英光の自殺,終戦後の太宰治の自殺,一高生原口統三の自殺,今また文学者田中英光の自殺」


11月14日の日記「…益々情勢は悪くなっている. ファシズム勢力は民主主義勢力に対して益々露骨な暴力をふるい始めた. 小林多喜二の小説をみて,僕達の心臓をかきむしられる思いをした,あの残酷なテロールが再び始まった」(以上,静岡の頃)[*1]


その年は,1月衆議院選で共産党が35名の議員を当選させ,10月新中国誕生という反面で,「ドツヂ・ライン」,経済安定9原則で企業整備首切りが未曾有の規模で行われた年でした. 今では一寸想像もつきません. その年に松川事件がおきました


1950年4月2日の日記「戦争の終わったばかりの頃,人々は口をひらけば,民主主義革命を語った. その時は革命を語ることは容易であり,革命を語らないことははづかしい気がしたものだった. しかし今日は革命を語ることは困難になってきた. …人々は遠慮しがちに語りはじめ,すでに革命について語ることを避けはじめた…」


所長から「君みたいに他の人と協調しないと嫌われる. 役員室からも警戒され,昇給でも何でもそのために苦しんでいるのだ…」といわれたことが,5月23日の日記にかいてあるのは,ちょうどストックホルムの平和投票で署名を集めて,警察からききこみをされたときではなかったかと思います

*1:紹介者註記:筆者は社内レッドパージ状態にあり3年,長くとも5年毎に転勤させられ(銀行員は異動が多いとは言うが…),静岡→鹿児島(静岡での同僚と結婚)→1952/8宮崎(3月,長男生まれる)→1957/8(長男5ヶ月での転勤)仙台→1960/8 名古屋→1963/8 山口→1966/7/21 松江→1971/1(長男高校受験直前,正月休み)東京

70年代に入り会社幹部の「活動家」対策転換により,それまで各地に分散させていた活動家達(が各地で活動家を育ててしまうため)は有楽町の農林中央金庫研究センターに集約された.

研究センターでは共同組合の歴史を纏めていたようだ [著作一覧参照id:dempax:00001123]