『中央公論/緊急増刊/松川裁判特別号』73(12)No.846 巻頭言

巻頭言


広津和郎君の「松川裁判」は立派な仕事になつた. 末広がりに反響が大きくなつた. 広津君の無私な誠意が人々の胸に通じ出したといふ感じである. 個人の仕事でその主張がこれ程に盛上つたといふ例はこれまでなかつたやうに思ふ. 実に稀有な事である


この運動が変に殺気立たなかつた点もよかつた. 若い被告の人達も広津君を信頼しきつて,広津君のペースを少しも乱す事なく,冷静さを保つている事も気持がいい. そして,広津君は注意深く,この運動を政治に利用されないやうによく守つた. この点も吾々に何か清々しい感じを与へている. 完全とは云へないかも知れないが,兎に角,言論の自由が云はれている此時代であつた事もよかつた. そして此雑誌が広津君をよく理解し,五年もの長い間,商売気を離れて,紙面を割いてくれた事は賞賛に価する


広津君は五年間を通じ,精魂を傾けてこの仕事に当つた. 会へばこの話の出ない事はなかつた. 広津君は老作家とよく書かれているが,少しも老込まず,老込んでなんか居られないではないかといふ意気込みで,実に勤勉に調書を調べていた. 勉強家ではないと自称し,---正にさうだらうと思はれる広津君がよくも五年間調書調べの勉強を続けたものだ. これは誰にでも出来る事ではなく,死刑,或は無期などの宣告を受けた無この被告達に対する広津君の生まれつきの優しい温かい心がそれをさせたのだと私は思つている



【出典】志賀直哉『全集10』岩波書店,1999/09/07 p.64-p.65「松川事件特集号巻頭言」


【初出】中央公論/緊急増刊/松川事件特集号 73(12) No.8x6 (195x/x) x…潰れていて読めない