『ちくま』2013/7月号世の中らぼ40 斎籐美奈子


「なぜ日本の慰安婦問題だけが世界に取り上げられるのか. 日本は『レイプ国家』だ, 国をあげて強制的に慰安婦を拉致し, 職業に就かせたと世界は非難している. その点について違うところは違うと言わないといけない」【論点1】軍の強制はなかった


「あれだけ銃弾が雨嵐のごとく飛び交う中で命を賭けて走っていくときに, そんな猛者集団, 精神的にも高ぶっている集団をどこかで休息をさせてあげようと思ったら, 慰安婦制度は必要なのは誰だって分かる」【論点2】慰安所は必要だった


慰安婦制度じゃなくても, 風俗業は必要だと思う. だから沖縄の普天間に行ったとき(米軍の)司令官に『もっと風俗業を活用してほしい』と言った」【論点3】風俗業を活用せよ


以上(2013年)5月13日の会見で橋下徹大阪市長(「日本維新の会」共同代表)が口にした「慰安婦は必要だった」発言(要旨)の, 特に聞き捨てならない部分である. 一連の発言が世界を駆け巡り, 国内外から激しい批判を浴びたのはご存知の通り


とはいえ市長自身は,自民党の閣僚にまで「慰安婦制度は女性の人権に対する侵害だ」(稲田朋美行政改革担当)などと批判されることに納得いかなかっただろう. 【論点2】【論点3】はともかく【論点1】の総元締めは当の自民党, 彼らこそ「軍による慰安婦の強制はなかった」と主張してきた張本人だからである. これもひとつの機会. 慰安婦問題を復習してみることにした

「強制はなかった」の根拠

慰安婦」問題は,千田夏光従軍慰安婦』(1978年,三一新書)のころから論じられてはいたものの,これが社会的に大きな関心を集めた最初のピークは1992年だろう. 1月11日の朝日新聞が「慰安所 軍関与示す資料」という記事を1面で報じたのがきっかけだった. 訪韓を控えた当時の宮澤喜一首相は14日の記者会見で「軍の関与を認め,お詫びしたい」と述べ,国連人権委員会からの勧告などもあって,翌93年には,政府の公式見解として,軍による強制を認め,謝罪を表明した河野洋平官房長官の談話(いわゆる「河野談話」)が出された


二度目のピークは2007年,第一次安倍内閣のとき7月30日,米下院が日本政府に慰安婦問題に関する明確な謝罪と責任の表明を求める決議を採択したのがきっかけだった. 安倍首相は「軍が強制した証拠はない」と反発. 他の政治家や評論家らと連名でワシントン・ポスト紙に「慰安婦は公娼だ」などの意見広告を出す一方10月5日には「河野談話」に反する「強制連行の証拠はない」の見解を閣議決定した


以来,この案件は結論が出ないままくすぶり続けている. 軍による慰安婦の強制連行はあったのか. 慰安所は軍が設置したのか業者が勝手につくったのか. 慰安婦たちは平時の公娼と同じなのか, 過酷な性奴隷の状態にあったのか……


以上の経緯を踏まえて, まず秦郁彦慰安婦と戦場の性』を読んでみよう.「軍の強制はなかつた派」が主張の根拠にしている本である. 橋下発言に関しても「事実関係の大筋は正しい」と著者は述べていて(産経新聞2013/5/16),それだけでも印象はよろしくないが, とはいえ本書は,明治の公娼制度,慰安所の実態,諸外国の例,「河野談話」以降まで射程に入れた労作だ


「軍の強制」に関して, 著者が疑問を呈しているのは主に二点. 第一に元慰安婦として名乗り出た女性たちの証言,第二に『私の戦争犯罪朝鮮人強制連行』(三一書房,1983年)などの著書で自ら「済洲島で慰安婦狩りをやった」と告白した吉田清治の証言についてである


後者の証言については現在ではほぼ否定されている秦自らが吉田にインタビューをしまた済洲島に赴いて調査した結果吉田が書いているような「慰安婦狩り」を裏付ける事実は見つからなかったためである. 本人に悪意はなかったにせよ,朝日新聞はじめ多くのメディアが「かつがれた」のは確かなようだ


厄介なのは前者である【慰安婦事実だけでも, 立証困難な例が多いから, 彼女たちが数十年の歳月を経て記憶だけを頼りに語る「身の上話」は雲をつかむようなものばかりである】と著者はいい, 韓国, フィリピン,中国,インドネシア,オランダ,日本の元慰安婦たちから選んだ【サンプル的な「身の上話」】を検証する. さらに(ここが念の入ったところだが),それぞれの証言の裏を取るべく,彼女らがいた現場に近い元日本軍の将校や兵士を探しだし,両者の証言の食い違いを執拗に洗い出してみせるのだ. その手つきたるや,犯罪を追究する警察か検察の如し


そこまで調査した上で出た結論が【朝鮮半島においては日本の官憲による慰安婦の強制連行的調達はなかったと断言してよいと思う】. 韓国側が信用できるとお墨付きを出した19人の元慰安婦についてだけ見ても,「動員方法」は,軍人・軍属の暴力によるもの4件,就業詐欺が13件(民間6件,官2件,軍人・軍属5件),誘拐拉致が2件(民間1件,軍1人件),売買1件(民間). この中で「強制連行」に当たるのは,軍人・軍属による暴力4件と拉致勧誘2件の合計6件だが,いずれの証言も曖昧で【官憲の仕業とは思えないふしがある】. また【親族,友人,近所の人など目撃者や関係者の裏付け証言がまったく取れていない】のも疑問である


ここまで調べ尽くした情熱には頭が下がる. しかしはたして, たとえば就業詐欺(「日本に行けば金になる」などと誘う)は「強制」とは言わないのだろうか. 著者の思惑とは裏腹に, この本に書かれている事実関係だけをとっても, 慰安婦を集める手段は相当に悪辣で, とても「強制はなかった」「軍は関与していなかった」などと胸をはっていえる状況ではないのだ


実際, 2007年の米下院の決議を踏まえて出版された『ここまでわかった! 日本軍「慰安婦」制度』は, 秦がいうような狭義の強制(軍による組織的な強制連行)だけが「強制」ではなかったと主張する. 日本も加盟する当時の国際条約(「醜業を行わしむる為の婦女売買取締りに関する国際条約」)は, 未成年(満21歳未満)の連行と, 【詐欺・暴行・脅迫・権力濫用・その他一切の強制手段】による【勧誘・誘引・拐去】を禁じていた. これに反する以上, 就業詐欺とて「強制」に相当するのはいわずもがな. 「強制を示す資料はない」という意見に対しても「資料はある」として, 著者のひとりの吉見義明は米軍の公文書を上げ【日本の公文書がなければ(強制が)なかったといえるのでしょうか】と反駁する


「強制」の概念ひとつとっても, この食い違いぶり. 慰安所の設置や運営への軍の関与, 慰安婦の待遇などについても同様の食い違いが見られる. 居住外出拒否廃業の自由がなかった慰安婦制度は【性奴隷制度であるというほかありません】という吉見に対して秦はいう.【廃業の自由や外出の自由についていえば看護婦も一般兵士も同じように制限されていた】. 参照する資料や証言に大きな差はない. 要は「解釈」「見解」の違いなのである

安倍・橋下が固執する論点


である以上, 両者の主張は永遠に平行線だろう. がしかし, いま問題にすべきは, そうまでして「強制はなかった」と言い張ることにどれほどの意味があるのか,だ. 現在の国際常識では管理売春はすべて「性奴隷」である.「慰安婦は公娼だった」などと主張したところで何の足しにもならない. 戦前の日本の公娼制度は, 他国とは比較にならないほど「性奴隷」度が高かった. 日本の公娼制度の特徴は, 女性を「廓」に閉じ込め行動の自由を奪う点にあった. 多くは前借金に縛られ, 事実上, 廃業の自由はなかった. それを「必要悪」として日本の政府は容認していたのである


そのへんをやや違った角度から論じているのが, 倉橋正直『従軍慰安婦公娼制度』である. 日中戦争の当時中国の最前線には多数の日本人町があり内地と同じような売春が行われていたしかし太平洋戦争に突入する年頃から状況が変わる韓国人慰安婦の数が増え東南アジア戦線で慰安婦の「性奴隷化」が進んだのはこの頃からだった. 慰安婦には「売春婦型」と「性奴隷型」のふたつがあったという従来からの著者の主張は「強制はなかった派」と「あった派」の折衷案のようにも見える


だがその倉橋が同時に指摘するのは,そもそもの近代日本の公娼制度の特殊性である.【私はむしろ,公娼制度を日本の封建社会の在り方に規定された,日本社会に固有の売春の仕組みととらえる. 日本の封建社会の在り方が独特なものである以上,それに規定された公娼制度もやはり日本独特のものであった】


倉橋が指摘するのは,兵士の劣悪な待遇を前提にした民間業者と軍の馴れ合いである. 他国の軍隊では軍自体が提供する福利厚生を日本軍は駐屯地で民間の商人に担わせた. 軍の駐屯地は元来,民間人が勝手に商売できる場所ではないが,それができたのは【軍から正規に許可されたか,あるいは黙認されたからである】


秦郁彦ら「強制はなかった派」の主張を西野留美子は次の四つに分類する(『ここまでわかった日本軍「慰安婦」制度』)


【A】軍による強制連行を示す証拠はない


【B】強制したのは業者である


【C】被害者の証言を証明するものがない


【D】慰安婦は「性奴隷」ではなく「商行為」だった


橋下や安倍が主張するのもこの四点だが,ここに執着する限り,日本の信用は失墜するばかりだろう


……



秦郁彦慰安婦と戦場の性』新潮社,1999/06


慰安婦と戦場の性 (新潮選書)


自民党の政治家ら「なかつた派」が主張の根拠としている本. 二段組400頁を超える大著……

倉橋正直『従軍慰安婦公娼制度-従軍慰安婦問題再論』共栄書房,2010/08


従軍慰安婦と公娼制度―従軍慰安婦問題再論


…略…

日本の戦争責任資料センターアクティブ・ミュージアム「女たちの戦争と平和資料館」『ここまでわかった!日本軍「慰安婦」制度』かもがわ出版, 2007/12/1 ISBN9784780301397(目次⇒id:dempax:20071210)


ここまでわかった!日本軍「慰安婦」制度


同名のシンポジウムを纏めた本. 「加害責任はどこまで明らかになっているか」(吉見義明),「『慰安婦』制度はどのように裁かれたのか」(林博史), 「被害者の証言は何を明らかにしているか」(西野留美子)の三本の報告を軸に「なかつた派」への反論を展開. 慰安所管理に関与した軍隊は日独だけなどの興味深い指摘も

赤旗海賊版/推薦図書

通称『黄色い本』


日本の前途と歴史教育を考える若手議員の会『歴史教科書への疑問―若手国会議員による歴史教科書問題の総括』転展社,1997/12


歴史教科書への疑問―若手国会議員による歴史教科書問題の総括


若き日のちんぴら極右たちが吉見義明先生を呼びつけ吊し上げようとした記録. 吉見義明特別講義からな〜んにも学ばず, ちんぴら極右は今や天麩羅極右に進化


佐賀朝/吉田伸之編著『遊廓社会2』


近世から近代へ (シリーズ遊廓社会 2)

赤旗海賊版/関連記事


2007年の意見広告でブッシュ大統領に詫びを入れた極右天麩羅は,2012年11月の意見広告でワシントン・ポストへ名前を出すのを自粛. で, ニュージャージー州の地元紙には手下引き連れ,意見広告に参加. 山口の田舎でなら組織暴力とつるんでやりたい放題ですからなあ id:dempax:20140904


1997年に極右国会議員が教科書の「慰安婦」記述削除を求めた際[*1][*2]の政府委員が「歴史学での強制連行」理解[*3]として挙げた文献 國史大辞典「朝鮮人強制連行問題」を読む id:dempax:19880930



*1:3月12日参議院予算委員会

*2:自民党小山孝雄朝鮮半島地域への徴用令の適用は昭和19年だが,この写真は昭和14年なので……この写真は(強制連行を現すものとしては)相応しくない」

*3:文部科学省初等中等教育局長「強制連行の中には,募集の段階を含めてこれを評価するというのが学会に広く行き渡っている. たとえばここに國史大辞典を持っているが,募集,官斡旋,徴用など,形式は異なっていても,すべて国家の動員計画により強制的に動員した点では相違がなかったと歴史辞典にものせられている」