2. 「大きな川のほとり」とは何処か?


【2a】


自分が駐屯していたのは斎斎哈爾の郊外。名前は忘れたがかなり大きな川があって、その近くに駐屯していた。斎斎哈爾はかなり大きい町で、現在の宇都宮くらいはあったんじゃないか、祖父の駐屯していたところから斎斎哈爾の街中までは数キロだった【祖父の証言】


【2b】【3】


Q、日本とソ連終戦間際まで不可侵協定を結んで戦ってないのに何故捕虜になったのか?また、なぜ解放されたのか?


A、自分のいた歩兵59連隊はまず1940年に斎斎哈爾に行って、「匪賊」の討伐をした。それから名前は忘れたが大きな川のほとりに行って駐屯していた(慰安婦で女遊びをしていたのはこの時期のこと)。そこにソ連軍が攻め込んできて、捕まってシベリアに連れて行かれた。59連隊の中でだいたい500〜600人程度捕まったのではないか。それは日ソ中立条約(1941年4月締結)の前の話で、シベリアには3〜4年居た。解放された理由は忘れてしまって思い出せない。【祖父の証言Q&A】


【問題点】


【2a】の証言はそのまま理解できる. 当時の斎々哈爾の写真,地図(id:dempax:20141105),斎々哈爾第480部隊の高射将校・吉富利通(部隊の場所は斎々哈爾市街から12km南で「おじいちゃん」とは異なるが)『ある初級将校の敗戦日記』(id:dempax:20141108)も参考になるだろう


斎々哈爾の軍慰安所については被害者の証言がある


張秀月チャンスウオルの証言(id:dempax:20141110)


…数日かかって着いたところは中国の斎々哈爾チチハルという所だった. 警察は私たちを,ある横長の一階建ての建物に連れていったが,その家はまるで共同便所のように小さい部屋が並んでいた.[*1] その時になっても,私はその家は合宿所でこれからここで寝起きしながら工場に通うのだとばかり思っていた. そこには既に15人の娘たちが来ていた


警察は私たちをある日本人に引き渡したが,あとで知ったのだが,その男が「慰安所」の主人だった. 彼は私たちに部屋を割り当て,日本の名前をつけたのだった. 私には5号室が割り当てられ,名前も「テルチヨ」と呼ばれるようになった. 部屋の大きさは二人がやっと横になれる程度で,畳が敷かれて,各部屋ごとに番号と娘たちの名前が付いていた

から麻生郁男産婦人科医が1938年に撮影した上海の慰安所「楊家宅慰安所


各室入口扉の上に番号と源氏名の表札あり, 内に入ると正面に洗滌場があり, 各室は疊敷き

同様,軍が建設,当初は経営し,地域住民の目を憚って,業者経営に民営化した型の慰安所が斎々哈爾にもあったと思われるid:dempax:00000914(麻生医師撮影の写真は『一億人の昭和史不許可写真史』毎日新聞社,1977/01/01,p.64上 ,WAM『日本軍「慰安婦」問題すべての疑問に答えます』合同出版,2013/11/05,p.9上左にある)⇒「祖父の証言」の軍慰安所は長屋型ではない id:dempax:20141201 2014/11/23追記


【2a】「名前は忘れたがかなり大きな川があって、その近くに駐屯」したのが斎々哈爾なのは明らかだが【2b】「名前は忘れたが大きな川のほとりに行って駐屯」したのは何処なのだろうか?


それから名前は忘れたが大きな川のほとりに行って駐屯…

「それから」が斎々哈爾からの移駐を意味すると読めば,【2a】【2b】は別の場所になるだろう. 何処へ移駐したのか「大きな川の名」や地名は思い出せなくても,満鐵でどの方向へ何時間の移動といったことは確認しておきたい[*2]

*1:「共同便所のように小さい部屋が」並んだ「横長の一階建ての建物」の写真を麻生医師が,1938年上海で撮影している

*2:連隊史の記述に従い,満蒙国境地域ハンダガイへ移駐したと,推測. 満鐵斎白線で斎々哈爾→白城子,白阿線で白城子→阿爾山→軍用鉄道?で新しい駐屯地へ, または自動車ならこれに並行する軍用道路を使う,高橋文雄『第14師団史』参照id:dempax:20141111