参考サイト

長春だより 富岡製糸場世界遺産登録をめぐってhttp://datyz.blog.so-net.ne.jp/2014-05-04



http://blog.goo.ne.jp/harumi-s_2005/e/fb7617e80863e845a974bfbb82314876


【抜粋】


…… 官営工場時代の富岡製糸場は採算を度外視した赤字を生む公共事業であり、特に初期の数年間は生糸を大量生産する工場というより、寄宿制の女子繊維工業専門学校といった方がその役割りを正しく表現しているといえる。労働環境も労働法が整備されたフランス式に整えられていたから、この時期に限っていえば富岡に女工哀史はない。しかしそれは、115年にも及ぶ富岡製糸場の歴史のうち、ごく一部の出来事に過ぎない


創業3年目には早くもポール・ブリュナを解雇(高額な給与が問題視されていた。再契約はなく明治9年に帰国)。日本人の手で生糸の製造が開始されるが、思うように生産量が伸びず赤字が解消されないまま明治26年には民間に払い下げられている


民営移行後間もない明治31年、早くも工女のストライキが起きた。採算度外視の実験的工場からシビアに利潤を追求する工場に変えようとすれば労働条件が悪くなるのは当然だ


富岡製糸場の建設に深く関わり、富岡の仕掛人ともいえる渋沢栄一も、富岡製糸場は国による採算を無視した経営であり、それゆえ上手くいった面もあるが、実際に製糸の近代化に貢献したのは民間の人々であると語っている ……


女工哀史
http://ueshin.blog60.fc2.com/blog-entry-880.html



レファレンス共同データベースから


http://crd.ndl.go.jp/reference/detail?page=ref_view&id=1000112505


富岡製糸場には当初、外国人指導者がきたというが、


(1)何人くらいいたのか(14〜5人いたと聞く。中には女性もいたようだ)


(2)何日くらい滞在したのか


(3)外国人指導者を呼ぶのに、いくらぐらいのお金が必要だったのか


ということが、『富岡町史』に記載があるということを聞いたので調べてほしい


http://crd.ndl.go.jp/reference/modules/d3ndlcrdentry/index.php?page=ref_view&id=1000112537


質問(Question)


明治時代、富岡製糸場では女工がなかなか集まらず、士族の娘など、名士の家に声をかけるほどだったそうだ。


当時の同工場は労働時間が週40時間だったと聞いているが、大正時代の川崎労働争議より以前にこういうことが本当にあったのか?