矢部史郎・山の手緑『無産大衆真髄』(河出書房新社 2001/01/30)
なぜ人を殺してはいけないのか
山の手緑
「なぜ人を殺してはいけないのか」と問う少年がもし本当にいるのなら、私たちはまずその問いをさえぎって怒ろう(喜びながら)。そして、そのような問いに怒り、あたまごなしに禁止する態度が、民主主義なのだと明言しよう
「知恵遅れの少年を殺してはいけない理由」などというものは、絶対にあってはならないし、その生を価値づけることで殺人を禁止するような条理(の説法)は、周到に排除されるべきだ。
人の生を等しく価値化することで「人権」や「平等」を観念するのが国家主義(天皇主義)だとして、私たちは、人の生を等しく没価値化し、そして、人の生を無条件に肯定するこの不条理な、偏向した、極左的な態度が、アジアの歴史(4000年)にとって極めて異例な運動であることを強調しよう。
だから、少年の問いに対したとき、回答は二つある。
「私たちはみな陛下の(神の、民族の、地球の)子供なのだから、殺し合ってはいけないのだ」と教えることもできるし(整合的)、逆に、「俺はただのデラシネだよ、でもだめなものはだめなんだよ」と言うこともできる(無理矢理)
重要なのは、論理的な整合性ではなく、また(階級の)しみったれた現実感でもなく、私たち各々がどのような政治的態度を示すのかである。少年が問うているのはそれ以外ではない。
「なぜ人を殺してはいけないのか」と問う少年がもし本当にいるのなら、私たちはまずその問いをさえぎって怒ろう(喜びながら)。そして直後に、少年が問うたことを忘れよう。
人間の存在を社会的有用性に切り縮め、その関係の質を貨幣によって計量するのが資本主義だとして、私たちは、社会的無用性と存在の不可視性(関係の計量不可能性)を全面開花させる運動を、特異/固有性の運動と呼ぼう。そして、植民地主義の走査に脅かされ、個性と創造性と自己実現(リアル)と充実した関係と前向きな生活態度を強要される人々が、その拘束された動機と、強要された主観性を廃棄する試みを、この特異/固有性の運動へ集約していこう。
だから、14歳の少年が何を言ったかは問題ではない。問題は、なぜ大の大人が少年の精神を問題にするのか、である。少年の精神が不可視であること、理解できないことに、なぜいまさら驚いてみせるのか。そんなことはわからないのがあたりまえ、わかろうとする方が無理なのである。少年は基本的に放っておけばいいのである。
ただ、「なぜ人を殺してはいけないのか」と問われたときは、「どーもこーもない、だめなものはだめだ」と怒鳴っていればよいのであって、そうすれば少年は少年で「大人はすぐに怒鳴る、バカだから」と納得するのである。