大越愛子「戦後思想に抗するフェミニズム」より


ibid. p.48

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問題を一点に絞っておく。それは、戦争責任を否定する側にも戦争責任を引き受けようとする側にも共通する対応として、日本的共同体主義が露出してきたことである。


自分たちが所属する国家共同体が犯した戦争犯罪に対して、国家共同体と自己同一化する側は、被害女性たちをさらに貶めることで自己と国家を免罪しようとする。他方で、戦争責任を引き受けない国家を批判する側は、その国家の恥を自らの恥とし、被害者と自己同一化することで、罪の償いをおこなおうとする。これは倫理を共同体内部で捉えるときに現れる対立だが、この二元的構図を表層からしか読めない人たちは、その対立の不毛さを強調し、ついで倫理そのものを批判し脱モラルを提唱した。


典型的なものとして、加藤典洋敗戦後論』が巻き起こした「ノン・モラル」論争がある。彼の論自体は稚拙なものだが、それに少なからぬ知識人やフェミニストが共鳴し「倫理」や「正義」などの言葉が冷笑される事態が生じた。問題にすべきなのは、共同体に自閉した論理、倫理であり、それを超えた倫理や論理ではないはずである。だが共同体の外部からの視点という発想がない人々は、共同体内部の論理、倫理の限界を批判できず、ましてや共同体を超える倫理の可能性など展望できない。彼らは、そうした倫理を既成のものと混同する自らの知的怠惰のままに、結果的に共同体を防衛する議論に陥っていった。


[中略]


「国民基金」は、ドイツのユダヤ人虐殺に対する国家責任、アメリカの日系人の収容に対する国家責任などの公的責任重視の流れのなかで、世界に例のない民営化方式と言える。日本国家が法的責任をとることは期待できない以上、民間団体が中心となって政府や自治体からの寄付を受け付けるなど、官民一体で道義的責任をとる運動を展開し、被害者に償うという「国民基金」の発想には、一見被害者に即した立場を装うが、実際は加害主体を曖昧にして金銭問題で決着しようとする意図が見える。この「被害者の観点」を強調して国家責任を隠蔽する民営化方式は、被害女性と支援団体から猛烈な反発を引き起こした。


いまから振り返れば、「国民基金」は国家責任、構造的暴力の問題を被害者個人へと還元して、それを受け取るか受け取らないかを被害者の自己決定に委ね、その後に起こる様々な葛藤や心情的問題は彼女らの自己責任で自分たちの問題ではないとする、見事なまでに新自由主義路線に基づいたものであることがわかる。また、「人間的尊厳」という人類が獲得した定言命法を要請する主体を、自己利益を求める個人へと恣意的に変換したのは、倫理の新自由主義的(ネオ・リベ的)規制緩和方式である。


[中略]


だがこのころ、すでにネオ・リベ的心性は日本の運動内部にも浸透しつつあった。こうした画策をいわゆる保守派ナショナリストでなく、従来リベラルとされていた知識人たちがおこなったことが問題を複雑にしその評価をめぐって運動は内部分裂していった。「人間的尊厳」という倫理的かつ高尚な理想よりも、いま目の前にいる被害者を金銭的に救うことが先決とする見解に反対することは難しい。こうした方法をめぐって運動は混迷した。


だが他方で「慰安婦」問題の射程は、こうした個々人の金銭問題を超えている。「こんなことが二度とあってはならない」という被害女性たちの思いに応答するためには、このようなネオ・リベ的解決を超えた方式を編み出す必要がある。特に被害女性たちから出されていた加害者処罰の要求に対しては、従来の日本の戦争責任問題で周到に回避されていただけに、これに本格的に取り組むことは、倫理なき日本のネオ・リベ的傾向に一矢を報いることにもなるはずだった。松井はその論拠を、共同体原理の外部に置こうとした。


[以下、略]

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参考りんく

http://m.togetter.com/li/517608



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