なぜ収束されないのでしょうか

1993年8月に, 軍の関与を認め, お詫びと反省の気持ちを表明した河野談話が出されましたが, 被害者の方々が求めている国の謝罪と国家補償については, サンフランシスコ条約や二国間条約で解決済みとの説をもって対処し, また強制性の否定など歴史認識の問題も絡み, 複雑化し, 本当に残念に思います


しかも, 1992年2月以来, 国際社会から人権問題として取り上げられ, 国連やILOから, 日本国が法的責任を認め, 謝罪と国家補償を行うよう幾度かの勧告を受け, 更に, 各国議会からも解決を求める勧告議決を受けてきました


この状況の中で, 1995年7月村山内閣は道義的責任を果たすとして, 海外の被害女性に対する償い事業「アジア女性基金」を発足させました. 総理大臣の手紙を添えて, 被害女性一人一人に届けることとなった「償い金」は, 謝罪の手紙に涙して受け取られた一方, 日本政府に対し, 法的な責任を認めた賠償ではないと激しい反対運動が韓国から起こるなど, 償い事業は難航し, 幾多の問題を残したまま2007年3月に解散


一方, 韓国, 中国, 台湾, フィリピンの被害者が日本政府を相手どった裁判が起こされましたが, 被害事実は認めたものの, 個人が補償を求めて裁判することが認められず, 10件いづれも敗訴. ただ立法解決を求めた判決も出されています


2000年4月「慰安婦」問題の立法解決を求める会によって「戦時性的強制被害者問題解決促進法案」が参議院に初めて提出され, 以後8年間に8回にわたり同法案が提出されていますが, いづれも審議未了廃案となっています




今年も8月15日, 69回目の敗戦記念日が近づいてきましたが, 戦後40年の8月15日に「鎮魂の碑」と墨書きされた檜の柱が, 当かにた婦人の村の山頂に建てられました. 婦人保護施設の入所者の一人, M.Y.さんの「慰霊してほしい」との願いによるものですが, 当施設が, 日本国の加害の歴史に深く関わるようになろうとは予想だにしないことでした


以来「鎮魂祭」と称して, 碑の前に集まり, 戦中日本国が犯してしまった最も重い加害の一つ「慰安婦」制度に思いを馳せてきました. 二度と繰り返してはならないこととして. またお詫びの思いをこめて. 29回目に当たる今年の鎮魂祭は, 橋下発言による衝撃の余韻の中で, 一層深く「慰安婦」にされた方々に思い致したいと思います.「日本軍の奴隷になり無残に踏みにじられた」悲痛, ほど想像し共感し得るでしょうか. しかし, その務めはしていきたいと思います


慰安婦」問題を知り, また関わって28年. 殊に韓国から名乗り出られた方々の証言を直接に伺う機会を何度か持ち, メディアを通し, NGOとの関わりなどを通して「慰安婦」問題の現状を認識しつつ, 早期解決を願ってきました. 同時に, この問題に対する政府, 政治家の姿勢を批判し, 憤りをも覚えてきました


しかし, この時点に立って「慰安婦」問題23年を顧みる必要があることに気付きます. 殊に大沼保昭著『「慰安婦」問題とはなんだったのか』を読み進めるに従って, この思いを強くしています


問題の核心から外れることなく, 日本国が犯した過ちによって傷ついた方々への償いに心を傾けたいと思います


(あまはみちこ: かにた婦人の村)