戦争は終ったのか

交戦国の間については国際法が規定する(たぶん).


ひとりひとりの兵士,ひとりひとりの戦争被害者にとっては??


日米百年戦争を未だに闘う西尾某も被害者のひとりなのか???


大原社会問題研究所/大原クロニカ http://oohara.mt.tama.hosei.ac.jp/khronika/ より

ポツダム宣言受諾


米・英・ソの3巨頭会談で採択されたポツダム宣言は,7月26日,英米中3国(ソ連は対日宣戦の8月8日参加)の名で発表され,日本の即時無条件降伏を要求したが,日本政府と軍部は黙殺した. ソ連の対日参戦の下で開かれた8月9日〜10日の御前会議で,原爆による国民の被害にも大きな関心を示さなかった支配層も,宣言受諾の意向を固めていった.元老・重臣・政府にとっては天皇制=国体護持のみに関心があった. 8月11日米国務長官バーンズの回答文がよせられ,天皇天皇制存続の可能性が示され,14日御前会議席上の天皇の決断によってポツダム宣言受諾が決定した.[参]藤原彰《太平洋戦争史論》1982 http://oohara.mt.tama.hosei.ac.jp/khronika/1945/1945_11.html

終戦詔勅[政]


1945年8月14日午前10時50分頃から,天皇の召集による御前会議が開かれ,天皇の裁断によって,正午頃ポツダム宣言の無条件受諾が決定した.日本の降伏が最終的に決定したのである.これを国民に知らせるために,午後の閣議詔書案の審議が行われ,最終的に各大臣の副署が終わり,天皇の裁可を得たのは同日午後11時ごろであった.詔書の日付は8月14日であるが,天皇自身の録音放送が行われたのは翌15日正午で国民はこのときはじめて敗戦の事実を知らされたのであった.詔書の内容は,〈戦局必ずしも好転せず〉とし,民族の滅亡を避けるために宣言を受諾するが,〈国体を護持し得て〉総力を将来の建設に続けるようにとの趣旨であった.〔参〕外務省編《終戦史録》1952 http://oohara.mt.tama.hosei.ac.jp/khronika/1945/1945_12.html

サンフランシスコ講和会議


戦後日本の占領体制を終結させる講和条約の調印式は,1951年9月4日,サンフランシスコのオペラ・ハウスで開会,8日の対日講和条約の調印をもって閉会した.参加国52ヵ国,条約署名国49ヵ国.ソ連ポーランドチェコスロヴァキアは署名しなかった. さらにインド,ビルマユーゴスラビア招請を受けたが参加を拒否し,また中国・朝鮮など日本の侵略戦争の最大の被害をうけた人民を代表する政府は招請すら受けなかった. したがって,米国とその友好国による講和会議となった.〈片面講和〉と呼ばれるゆえんである. 日本からは吉田首相を首席に6全権委員が出席し条約に調印.なお同日夕刻,日米安保条約の調印もなされたが,これは吉田首相のみ署名した.[参]西村熊雄《日本外交史》27巻1971 http://oohara.mt.tama.hosei.ac.jp/khronika/1951/1951_36.html

陸・海軍解体


ポツダム宣言により日本国軍隊は連合国に無条件降伏した.その結果,1945年9月2日の降伏文書の調印と同時に布告された指令第1号に従い,日本の陸・海軍は連合国の直接管理下で解体され,復員させられた.解体・復員業務は急速度にすすみ,10月15日,参謀本部と軍令部廃止の翌日,マッカーサーは日本軍隊の解体を宣言した.しかし海外の復員業務は完了せず,12月1日の陸・海軍省の廃止後,第1・2復員省が残存業務を行った[参]江藤淳編《占領史録》4巻 1982 http://oohara.mt.tama.hosei.ac.jp/khronika/1945/1945_15.html