水野廣徳 善導か我導か

水野廣徳 善導か我導か【初出:『雄弁』1924/2月号 出典:琴秉洞[クムピョンドン]編/解説『関東大震災朝鮮人虐殺問題関係史料3 朝鮮人虐殺に関する知識人の反応1』(緑蔭書房 1996/04/30)p173-174】



思想善導なる詞[ことば]は近時我国に於ける一種の流行語である. 歴代の政府必ず其の政策の一として思想善導を声明し,何れの政党も必ず其の政綱の一として思想善導を標榜して居る. 官吏も,学者も,教育家も,宗教家も,之に附和し,之に雷同し,今の日本に於いて思想善導を説かぬ者は国民たるの資格なきかの観がある. 抑[しか]も思想善導とは如何なることを意味するのであらうか.



元来,善とはどこ迄も善にして,決して悪ではない.人類窮極の目的が善の完成,善の徹底にある以上,思想にしろ,行為にしろ,之を善導することに対して何人[なんびと]も意義異論のある筈が無い. 併し善なる文字は絶対に善であるが,善なる意義は必ずしも絶対ではない. 一二の例を挙ぐれば日本人が世界に向かつて人種平等を叫ぶことは愛国の善思想と称しながら朝鮮人が日本に向かつて人種平等を唱えれば不逞の悪思想と憎む人が多い. 大杉栄外二名を殺害したる甘粕の思想と行為に対して善と誉める者もあれば悪と責むる者もある. 形に現はれたる行為の善悪は時の法律と道徳に照らして之を定め得[う]るとするも,形に現はれざる思想に対しては之が善悪を決定すること甚だ困難なるものがある. 知らず,今日妄[みだ]りに思想善導を説く人は,善悪の標準を何処に置くのであらうか. 若し己の好む思想,己の信ずる思想,己に都合よき思想を善として他人を導かんとするならば,是れ善導にあらずして我導である.



浪花節に依つて国民思想を善導否な我導せんとする大臣を有する我国に於て,殺人憲兵の出るのも不思議ではない. 遺骨強盗のあるのも怪しむに足らない. 元来人間が人間の思想を善導若くは統一するなどとは吾人より見れば僭越の沙汰である. 己惚[うぬぼれ]の至りである. 思想善導を説く前に社会改善の先決問題がある. 古い言葉だが,思想は思想を以て戦はすの外はない. 其の間に社会の進歩があるのである. 若し強ひて思想を善導せんと欲するならば,立憲国に於ては総ての国民をして暴力を謹み国法を遵奉せしむることでなければならぬ.


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