治安維持法犠牲者国家賠償要求同盟 関連りんく

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大原クロニカ http://oohara.mt.tama.hosei.ac.jp/khronika/
http://oohara.mt.tama.hosei.ac.jp/khronika/1968/1968_13.html
治安維持法犠牲者国家賠償要求同盟[社]1968.3.15

〈3・15弾圧事件〉40周年にあたるこの日,治安維持法による犠牲者への国家賠償を要求して結成された.解放運動旧友会が中心となって発足した準備会が,1963年以来準備を進めてきたもので,国家賠償のほか,治安維持法類似の一切の悪法復活阻止の運動,死没犠牲者の慰霊祭と家族の慰問,犠牲者名簿と記録,映画などの作製と出版・講演会・研究会を行うなどの方針を決めた.結成当初,約200人の犠牲者とその家族が参加,会長は神道寛次.〔参〕治安維持法犠牲者国家賠償要求同盟編『抵抗の群像』1976.
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伊藤千代子の書簡公開を要請 治安維持法国賠同盟苫小牧支部 (民主苫小牧 2005/02) http://www7.ocn.ne.jp/~tomajcp/minsyu2.html#q26


坂本修(自由法曹団団長) 改憲阻止, 憲法を生かして「もうひとつの日本」を - きめるのは私たち (2004/11/11 全労連憲法問題講師養成講座」) http://www.kyodo-center.jp/shirou/kouen/kouen01.htm


自由法曹団東京支部 鈴木亜英 NGOの役割と平和の創造 治安維持同盟の「生き生き国連人権活動」 (団通信No.1122 2004/03/11) http://www.jlaf.jp/tsushin/2004/1122.html#1122-03


保田慶子(治安維持法犠牲者国家賠償要求同盟鳥取支部) 治安維持法で殺された朝鮮の詩人 尹東柱 (鳥取民報 2004年2月6日,13日号) http://www.ncn-t.net/jcptori/m-toku050214/minpo050214C.html



伊豆利彦 日々通信 いまを生きる 第80号 2003年11月1日 http://homepage2.nifty.com/tizu/tusin/tu@80.htm

[……] 政治犯の釈放は, 当時の日本政府によってなされたのではなかった. 政府はいつまでもさぼっていて, 進駐軍の指令によってようやくこれを実行したのであった.

三木清が獄死したのは, 9月26日だった. 戦争が終わったのに, 獄中から解放されず, 悲惨な状態で獄死させられたのだった. 当時の私はもちろんそのことを知らなかったが, 思えば痛恨のきわみである.

10月4日にGHQ政治犯の即時釈放, 治安維持法廃止などを日本政府に指示し, ようやく政治犯の釈放が実現したのである.

宮本百合子の『播州平野』を見ても, 百合子は山口県の顕治の実家にいて, 新しい時代を喜んではいても, 政治犯釈放のために動いたようには見えない.

新聞で知ってあわてて上京したのである.


中野重治は, 自身の転向を恥じて, 釈放された政治犯を歓迎する人民大会に出席することもしなかった.

徳永直も宮城県疎開先にいた.

その他, 旧プロレタリア文学の作家たちはちりぢりになって, 一つのまとまった力になることは出来なかった.


日本人民は自らの手で政治犯を解放することができないほど, 押しつぶされ, 無力化されていた.

日本の戦後の解放運動は, 占領軍による政治犯の釈放からはじまったのであり, 出獄した徳田球一らが占領軍を解放軍と規定したのも無理からぬことだった.


荒正人は「第二の青春」に, この人民大会のことを熱っぽく書いているが, 宮本百合子が「歌声よおこれ」で述べたように, かつての左翼は<足なえ>の状態にあったというべきだった.

[……]

電車のなかで出会った餓死寸前の少年工をどうすることもできない自己の無力を書いた志賀直哉の「灰色の月」は, 末尾に「昭和二十年十月十六日の事である」という一句が付記されている.


この時期, 直哉はしきりに小林多喜二のことを思い出していたという. 多喜二が生きていれば, 彼らとともに解放されて, 元気な姿を見せたはずなのだ.


多喜二を思い出す直哉は, 「暗澹たる気持」であったろう. 直哉は若い多喜二に期待していた. 直哉もまた, はげしく戦争を憎み, 治安維持法を呪ったことであろう.


    いま, 朝鮮の強制収容所が問題にされている.
    しかし, 私はかつて日本にあった政治犯に対する残酷な弾圧を思わないではいられない.
    多数の朝鮮人が, 日本人に対するよりいっそう残酷な取り扱いを受けた.
    この苛酷な日朝関係, 日中関係の歴史を顧みることなしにアジア諸国の信頼を得ることはできない.


しかし, 私はいまの甘ったれた二世三世のボンボン政治家と同様に, それらをまったく知らずに, この四十五年の秋を, 自分の生き方を見失い, 混乱と苦悩のうちに, 周囲のものに当たり散らし, 悶々として生きていたのだ.


ここで参考のために, 治安維持法の犠牲者について, 記しておく.


特高政治の犠牲者 (治安維持法犠牲者)

  • 明らかな虐殺死 80人 [*1]
  • 拷問・虐待が原因で獄死 114人
  • 病気その他の理由による獄死 1,503人
  • 逮捕後の送検者数 75,681人
  • 未送検者数 数十万人 

              (国家賠償要求同盟の資料による)


歴史の渦中を生きたからといって, 歴史がわかるわけではない.

当時の私は何にも知らなかった.


横浜事件再審請求弁護団主任弁護人 環直彌 横浜事件再審決定の意義 (2003/06/29) http://www.rousyadou.org/1100.htm


治安維持法犠牲者国家賠償要求同盟高知県本部」事務局 TAMARA-ND http://tamara.hippy.jp/
お話出てこい http://tamara.hippy.jp/31_profile/05_okatai/00.html
2003/08/01 歴教協高知大会第1分科会「今も生きている治安維持法http://tamara.hippy.jp/31_profile/05_okatai/speech/pages/2003.08.01.html
2002/10/08 治維法同盟と民青同盟との交流で「治維法国賠同盟」について説明 http://tamara.hippy.jp/31_profile/05_okatai/speech/pages/2002.10.08.html


下山房雄の論集 http://www.shimonoseki-cu.ac.jp/~shimoyama/
≫ 市川正一碑前祭参加のことなど 下山房雄 赤馬通信第5号 (『かながわ総研 所報』116号2002年4月刊投稿原稿) http://www.shimonoseki-cu.ac.jp/~shimoyama/akama-5.html


「女性・戦争・人権」学会 ニューズレター 9号 その1 2001年8月21日
報告 シンポジウム「戦後責任を間い直す」 黒瀬勉 http://www.josei.com/womenrights/newsletter9_1.htm#%95%F1%8D%90%81@%83V%83%93%83|%83W%83E%83%80%81u%90%ED%8C%E3%90%D3%94C%82%F0%8A%D4%82%A2%92%BC%82%B7%81v



治安維持法犠牲者国家賠償要求同盟和歌山県本部 http://www.geocities.jp/doumeiwakayama/
ちあんいじほうって? http://www.geocities.jp/doumeiwakayama/chianijihou-menu.htm
≫ 『山宣の柩(ひつぎ)を担いで』「三・一五, 四・一六大弾圧記念のつどい」記念講演 戎谷春松氏 (治安維持法犠牲者国家賠償要求同盟常任顧問) 1994/03/28 http://www.geocities.jp/doumeiwakayama/chianijihou-menu.htm#%8ER%90%E9%82%CC%9El%82%F0%82%A9%82%C2%82%A2%82%C5

治安維持法犠牲者国家賠償要求同盟兵庫県本部 http://www.eonet.ne.jp/~qenkai-hyogo/chian.htm

*1:id:s_kotake:20050303#p2 で紹介の 治安維持法による犠牲者(衆院予算委員会での不破哲三氏の総括質問 1976/1月から)では 「逮捕され拷問で殺された者 65名」