1936/07 ゲルニカ

「ビックリ通信」123号 樫の木は残った 1997.2.15発行 http://www.dwell-info.com/bnt/t123b.html より抜粋転載

1936年2月, 総選挙で人民戦線が勝利し, それに危機感をもったフランコは 7月にモロッコで蜂起し, 内戦が開始された. 34年の「10月闘争」の敗北の痛手はあったがスペイン北部のアストウリアス, バスク地方の労働者は, 再び革命委員会, 地区委員会を組織し抵抗した. ナチスの軍部と資本家はバスクの鉄鉱山がなんとしてでも手にいれたかった. そのためには, バスクのさらに北部の労働者の自由と団結の象徴であるゲルニカを抹殺し, あの樫の木を打ち倒そうとするのも当然であった.

だが, ゲルニカの町は大半が破壊されたが, その樫の木は倒れも焼けもせずそびえ立っていた. やがて無差別爆撃に対する国際的な批判が高まった. 当時の「東京朝日新聞(現朝日新聞)」も「東京日日新聞(現毎日新聞)」は全くとりあげていない. (川成洋『資料・三○年代日本の新聞報道・スペイン戦争の受容と反応』)

ヒトラーフランコゲルニカ爆撃には関係していない, と言明した. それは「赤」どもが退却するときに放火, 破壊したのである. なぜなら, たとえば町並は焼け落ちているのに, いくらわが空軍が優秀であろうとも, 樫の木だけを残して爆撃するなどは不可能である, というのがその屁理屈であった. フランコの独裁のあいだは, スペインの歴史書に「ゲルニカ爆撃」は存在しなかったし, ピカソの『ゲルニカ』がナチスのパリ占領を逃れて渡ったアメリカからマドリードに帰還するのは1981年になってからである.