【ひと】吉田清治さん【朝日新聞1983/11/10朝刊(3面)】

ひと


朝鮮人を強制連行した謝罪碑を韓国に建てる吉田清治(よしだせいじ)さん[写真の上横書き]


[中央に顔写真]


□福岡県生まれ、法政大卒。昭和17年(1942)から敗戦まで山口県労務報国会動員部長。五年前、団体役員を退いた。著書に「私の戦争犯罪」(三一書房刊)など。70歳。[写真の右に縦書き2段]


[本文]全国から励ましの手紙や電話が相次いでいる。同じ戦争加害の意識に悩んでいた人、「強制連行、初めて知りました」という中学三年生……。


「でもね、美談なんかではないんです。二人の息子が成人し、自分も社会の一線を退いた。もうそんなにダメージはないだろう、みたいなものを見定めて公表に踏み切ったんです」


大学卒業後、旧満州国吏員から中華航空に転じた。身元チェックの甘さから、朝鮮人社会主義者[*1]を飛行機に乗せる結果になったことが利敵行為に問われる。軍法会議で懲役二年。出獄後、下関の親類宅に身を寄せると、特高警察から「罪の償いに、労務報国会で働け」と迫られた。


下関は関釜連絡船の玄関口。正規の徴用はもちろん、「実家に仕送りができる」とブローカーに騙された若者たちが次々に送り込まれてくる。しかし、内務省からは「人員払底の時局がら、取り締まるな」の密命。貨車で炭鉱や土木現場へ送り込んだ。


炭鉱では、逃亡を図った首謀者が木刀でなぶり殺される現場に出くわした。


教科書問題で文部省は「当時は朝鮮半島は日本であり、国民徴用令に沿ったもの」と弁明。この春には旧朝鮮総督府の幹部らが当時のダム建設の記録をまとめた。大会社の重役などに収まるこの人たちは「日本は朝鮮の近代化に貢献した」と、吉田さんを前に胸を張った、という。


「国家による人狩り、としかいいようのない徴用が、わずか数年で、歴史の闇に葬られようとしている。戦争責任を明確にしない民族は、再び同じ過ちを繰り返すのではないでしょうか」



(KH記者)


*1:金九