【窓】論説委員室から「従軍慰安婦」【朝日新聞1992/01/23夕刊(1面)】
窓
■論説委員室から
□従軍慰安婦[記事中央縦書き標題]
吉田清治さんは、昭和17年、朝鮮人を徴用するために設けられた「山口県労務報国会下関支部」の動員部長になった。
以降3年間、強制連行した朝鮮人の数は男女約6000人にのぼるという。
韓国の報道機関から「もし、わが国の国会で証言してほしいという要請があれば、どうしますか」と聞かれたとき、こう答えた。
「私は最も罪深いことをしました。証言しろといわれれば、韓国の国民、国会に対して謝罪し、そして何でも答える義務がある。その立場を自覚していますから」
記憶のなかで、特に心が痛むのは従軍慰安婦の強制連行だ。
吉田さんと部下、10人か15人が朝鮮半島に出張する。総督府の50人あるいは100人の警官といっしょになって村を包囲して、女性を道路に追い出す。木剣を振るって若い女性を殴り、蹴り、トラックに詰め込む。
一つの村から3人、10人と連行して警察の留置所に入れておき予定の100人、200人になれば、下関に運ぶ。女性たちは陸軍の営庭で軍属の手に渡り、前線へ送られていった。吉田さんらが連行した女性は、少なくみても950人はいた。
「国家権力が警察を使い、植民地の女性を絶対に逃げられない状態で誘拐し、戦場に運び、一年二年と監禁し、集団強姦(ごうかん)し、そして日本軍が退却する時には戦場に放置した。私が強制連行した朝鮮人のうち、男性の半分、女性の全部が死んだと思います」
吉田さんは78歳である。「遺書として記録を残しておきたい」と、60歳を過ぎてから、体験を書き話してきた。
東京に住んでいたころは時折、旧軍人の団体や右翼が自宅に押しかけてきて、大声を出したりした。近所の人が驚いて110番したこともある。
マスコミに吉田さんの名前が出れば迷惑がかかるのではないか。それが心配になってたずねると、吉田さんは腹がすわっているのだろう、明るい声で「いえいえ、もうかまいません」といった。
<畠>
【朝日新聞1992/01/23,夕刊(1面)】