本田昇 勝利を信じインターを歌いながら

はじめに


当時福島拘置所は市の北東部にある「御山」の麓にあった. 堀と瓦屋根の白壁の塀をめぐらした,明治からの木造建築で昔は「刑務所」であった. 街から来て,この堀と塀に突き当たり,堀沿いに右回りすると,拘置所の門の前に立つことになる. 右に登山口の石の大鳥居が見え,此処から裁判所へは徒歩12,3分で行けた



手錠でつながれ歩いた道


1949年8月17日未明,東北本線金谷川・松川駅間で,青森発上野行き旅客列車が,何者かによる列車妨害のために脱線転覆し,機関車乗務員3人が死亡するという事件が起こり,その犯人として検挙された私たち国鉄労組福島支部組合員の10人と東芝松川工場労組の組合員の10人,合わせて20人の被告は,此処に収容されていた(宮城拘置所をはじめ県内各所に分散勾留されていたのを公判開始前日に此処に集められたのである)


そしてこの年の12月5日からはじまり,翌年1950年12月6日の一審判決まで95回に亘った公判を,此処から通った. 当時拘置所にはバスがなく,幌のトラックか,または一つの手錠で二人の手首をつなぎ,お手々つないでの10組が2列縦隊となって,徒歩で裁判所へ通ったのである. 高らかにインターを歌い,看守を従えたこの行進は,意気軒昂であった


今日なら沿道につめかけた仲間や支援の人々から大きな激励や声援がかかるところであろう. 当時そのような光景は起こらなかった. しかしそれを意に介したような記憶もない


私の9歳下の弟は丁度この道筋にあった中学の1年生でインターの行進がくるたび級友の野次と冷笑が耐えられなくて「いつも教室を逃げた」と後に私に語った家の困窮も手伝い1年で弟はこの学校を退学した



意気盛んでも孤独の日