被爆者としての自覚確立へ


第二次世界大戦後の1945年9月,アメリカ占領軍はすかさずプレス・コードをしき,原爆被爆の実相と被爆者の実情についての報道をはじめ,原爆症の治療研究や原爆にかかわる文学作品にいたるまでその発表を禁止した. また大統領命令による米国原爆傷害調査委員会(ABCC)を1947,1948年に広島,長崎に設置し,被爆者にたいする治療を除外し,モルモット扱いの調査研究,資料収集,果ては死亡した被爆者の臓器をアメリカ本国の軍研究所に送付するなど被爆の実相が日本国民の目にふれるのをおそれ,徹底した事実そのものの隠蔽をはかった. これらは,次の核戦争の準備にも通ずるものであった



1950年6月,朝鮮への侵略戦争が始められたが,当時,日本共産党中国地方委員会は


日本ではじめて原爆被害者の写真を特集した機関紙を発行して,占領政策違反の名による弾圧のなかでこれを広め,核兵器反対運動を展開した……トルーマン大統領が朝鮮で原爆を使う可能性を示唆したとき,もっとも厳しい抗議に立ち上がったのも,日本共産党員であった. 宮本百合子は12月8日の東大での講演で強い怒りを込めてこれを告発し,被爆者であった峠三吉は,その憤りから『原爆詩集』を編んでこれにこたえた


日本共産党の60年』

のである



また,全面占領下の1950年3月原子兵器禁止のストックホルム・アピールへの支持署名運動が開始され,日本では8ヶ月間に645万人,世界では5億を超える署名が集められた. その運動の中心を担ったのが共産党員であったことはいうまでもない. その結果,アメリカ軍の朝鮮での原爆使用計画は,運動と世論の高まりによって挫折した



そして全国的にみれば,ストックホルム署名にふれた被爆者たちは,はじめて「被爆者」としての認識をもつきっかけとなったのである