運動誕生のドラマは語る


40年前は口にすることさえ許されなかった民主主義という言葉が,戦後は当然のように使われるようになったのに原水禁運動の歩みは似ている. そうした前進のなかで,かつて敵視した民主主義の名で反共をこととする動きが生まれてきたのと同様に,かつて原水禁運動を妨害した勢力が原水爆禁止の看板で運動を変質させようとしているのである. こうした逆流を克服するうえで,今こそ先駆的で前衛的,原則的な党の奮闘が求められていることを原水禁運動誕生のドラマは教えている



たとえば「加害者論」とでもいうべき意見がある「原爆の被害を強調する前に侵略民族だったことを反省しろ」式の議論である. その原型が原爆投下から三ヶ月後に早くもあらわれている


原子爆弾の一撃は見事に軍部を地上より一掃した. この一撃は市民の軍国主義を根絶せしめるなにものにも勝った教訓だ


【『中国新聞』1945/11/11 社説】

もちろん占領軍のプレス・コードへの迎合だが,こうした見解をのりこえて原水禁運動を構築していくうえで共産党が負っていた責務の重大さはいうまでもない



戦前,侵略戦争反対を貫いた共産党が戦後戦争責任の追及の先頭に立ったのは周知の事実である. そして,戦争がもたらした国民の被害の責任も当然戦争遂行者に帰すべきものとしてたたかってきた. しかし原爆の使用とそれがもたらした惨害は,そうした論理の枠をこえるもので,その投下が許されるどんな理由もありえないことを明確にしたのも共産党だったのである. こうした科学的見地があったればこそ,さまざまな原爆にたいする「肯定論」「宿命論」を克服して原水禁運動の基礎を打ち固めることもできたのである



もう一つふれておきたい



被爆者の老齢化がすすむなかで,被爆者援護法の制定は文字通り焦眉の課題となっているが,この要求が原爆投下の違法性を前提としたものであることはいうまでもない. 原爆を投下したアメリカにたいする賠償請求権をサンフランシスコ条約で放棄した日本政府が,アメリカにかわって国家補償すべきであるという趣旨のたたかいは,原爆投下に何らかの肯定的評価を下してきた立場と相いれないものである. ここにも,占領下で広島市民とともに共産党が確立した原水禁運動の理念が厳然と生きている