『高橋眞一著作集 第5巻 新しい歴史教育への道』あゆみ出版,1984/08/10,附録 月報 2

高橋眞一君と私

家永三郎

私が君とはじめて会ったのは,たしか1939年の何月かに『日本歴史叢書』の分冊の各著者としての用件で訪れた発行所三笠書房の事務所で偶然にも顔をあわせたときであった. それから数えらると半世紀近い年月がたっている. ずいぶん長い期間にわたる御縁といわねばなるまい


最初にはっきりさせておきたいのは,君が正統マルクス主義史家であり,私が非(反ではない,その区別が重要)マルクス主義史家であるという,立場の相違である. 当時三笠書房マルクス主義の思想・学術に関する出版に主力を注いでいた出版社であったが『日本歴史叢書』は,どう見てもマルクス主義史家とは思われない大久保利謙とか石村吉甫とか桃裕行とか私とかが,分担執筆している. 1930年代後半から40年代の雑誌『歴史学研究』がそうであったように『日本歴史叢書』も,歴史学界におけるひとつの「人民戦線」(私はこの名を,共産党が指導するそれよりも,さらに広い反ファシズム軍国主義の,対等な立場での連合という意味に使うことにしている)であったと思う


この一回の出会いののちに,戦争が激化して接触は絶え,再び関係がよみがえったのは敗戦直後の『くにのあゆみ』批判をめぐっての論争のなかであった. 戦争中は便乗しなかったつもりの私も,敗戦直後にはかえって正しい方向をつかめないでいた反面,私を批判した側にも,公式主義的清算主義的なうらみがなかったと言えないのではなかろうか


私が立ち直ったのは,1950年代に始まる「逆コース」を「反面教師」として,自分の責務を自覚して以後である. その道が教科書裁判につながり,君はこの訴訟のために進んで協力を惜しまれず,証言台にも立ってくれた. 15年戦争下の「人民戦線」が新しい形で再現したのである.


君は大患をのりこえて活動を続け,私も病弱の身を何とかもたせつつ古稀を迎えた. お互いに一日でも長く生き抜いて,半世紀前のそれを上回るに違いない悲劇の到来の阻止のために,息あるかぎり共に力を尽そうではないか (いえながさぶろう 東京教育大学名誉教授)