東京混声合唱団(田中信昭指揮)は現代合唱音楽の創造の母体の感のあるプロ合唱団で,前衛的な書法の難曲をこれまでに数限りなくこなして来た. 当夜の「三里塚」に先立つ水野修孝「幻」と西村朗「泪羅の淵より」も例外ではなかった. そうした場に,この合唱団にとって,少なくとも譜面づらの上からは練習の必要のまったくない,初見でやすやすと合ってしまうような曲を敢えて歌わせたのはこの上なく痛烈に効果的であった


もちろん,「三里塚」の意義はそうした効果や,合唱団と聴衆の学習や教育を目当てに作られたものでもないし,また悠治自身の言にもかかわらず,これらの歌をじっさいに三里塚周辺に行きわたらせるだけの目的で作曲したのでもなかろう


今日の作曲家のあいだに,それ自体が目的である作曲や,たんに音楽会で演奏されるための作品を新しい意匠で作曲することへの空しさが,だんだんと拡がりつつあることは否定できない. この非音楽的な季節に,何のためにクラシック音楽などやるのか. 音楽のために音楽をやれたのは19世紀,少なくとも20世紀前半までではないのか. 今や作曲を,音楽を何のためにやるのか,を彼らは考える


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