1(1)政府の空港建設計画とわが党の活動方針


1966年7月、政府が三里塚新東京国際空港建設を決定してから6年になる。空港建設は現在滑走路・ターミナルビルなど第一期工事の大半が完了した。しかし開港は当初計画より大幅に遅れ来春の予定となっている


政府が「世界の航空界の大型化・高速化にみあった空港が必要であり羽田が狭くなった」ことを理由に、新国際空港建設の計画を決定したのは1962年である。政府の当初計画は羽田空港の約7倍、総敷地面積で2300haという大規模なものであった。以後政府は茨城県谷田部町、千葉県浦安沖の東京湾上などの12の候補地をえらび検討を始めたが、予定地に選ばれたいずれにおいても「米軍専用管制空域」があり東側には航空自衛隊百里基地の軍用空域の関係や強い反対運動など空港計画の実現を阻んできた。その中で政府は1965年11月18日千葉県富里・八街地域を予定地にすると閣議『内定』を公表した


この不意打ちの内定は、現地農民、住民の激しい怒りを引き起こし、翌年月日には周辺2市11カ町村の新空港反対総決起大会が開かれ、現地農民によってつくられた反対同盟は、共産党社会党を中心にした民主勢力との共同闘争を発展させた。また、空港建設絶対反対をかかげ、署名・陳情・集会・デモなど多様な方法をもって政府にむけ、激しくたたかい「地元情勢から考え、まったく建設不可能」(友納千葉県知事の佐藤栄作首相への進言)というところに追い込み、ついに政府に富里・八街計画を断念させた


それ以降、空港建設反対闘争は富里村のとなりの行政区、成田市三里塚芝山町多古町にかかる地域に移されてきた。政府が富里・八街の次に三里塚を空港予定地に選び地元住民に何の相談もなく一方的に空港建設を決定したのは、第一に日米安保条約による米軍専用の空域の関係から、東京周辺で空いている空域が千葉県北総方面だけになっており、これが三里塚を選んだ最大の理由である。第二に三里塚が空港建設の大前提となる用地収容が比較的容易と見たからである


政府は三里塚の空港用地として収容される面積1065haには243haの国有地・下総御料牧場・153haの公有地があることを理由に地元の犠牲を少なくすることができると見せかけてきた。しかし、この空港建設のため移転を必要とする農家は敷地内325戸、騒音地域でも442戸(空港公団発表)とされている


日本共産党千葉県委員会は年月日に空港建設反対闘争方針「」を発表、この膨大な土地収奪と生活破壊をもたらす「」は「」と本質的に変わるものではない。それは


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であると位置付けたたかいの方向を第一に空港建設絶対反対を旗印にしながら、要求を基礎に反対同盟と地域農民・住民が団結をひろげさまざまな行動を発展させること、第二に地元農民の団結した闘争を中心に共産党社会党労働組合をはじめ、広範な民主勢力との団結と共同闘争をすすめることなどを明らかにした


日本共産党千葉県委員会は年月日政府が「」を修正して「」を指示したことに対し、ただちに県委員長談話をもって大抗議運動をよびかけ、月日には三里塚空港案撤回を政府に申し入れるよう県知事に要請した。また当時、地元の共産党組織は弱体で成田市をはじめ周辺自治体の富里村や芝山町にも党細胞はあったが、党議席はなく、ビラひとつ配布するにも党北部地区を中心に全県全域からの動員をはからねばならなかった。そんな中で千葉県党を中心に党中央を含め現地にオルグを送り農民の反対闘争を積極的に援助した。空港建設絶対反対を掲げた党の方針と取り組みは空港建設に反対する農民に強い支持をうけ、当初の反対闘争の発展に重要な役割をはたした