第2段階 国民的運動に拡大

第2審判決以降,松川のたたかいは,いわば国民的広がりをもつまでに発展していくのだが,これは一方では,第2審の判決に裏切られた痛切な体験から,最高裁で勝利するためには,まさに国民的運動にまで広げる必要があることを認め,運動を転換したためであったが,この転換が可能であったのは,安保体制を梃子として開始された政治の反動化に対し,平和と民主主義を守り,真の独立をかちとるためのたたかいのなかで,労働者階級内部においても,労働者階級と国民の他の層との間においても,統一の機運が進んだためであった


この段階で運動の拡大に役立ったのは「公正裁判要求」であった. 無実の訴えとデッチ上げ暴露を直ちに受け入れない労働組合や,国民の他の層の人々にも,公正裁判の要求は広く受け入れられた


東京では丸ノ内守る会,岩波守る会等が中心となって,「自分たちは松川のたたかいの火種,たたかいの一番困難な側面を支えよう」として「東京都松川問題懇談会」が組織された. この会はその名の示すように,松川問題に何らかの関心をもち,疑問をもつ人々と,松川の真実について懇談し,研究を進めていこうというのであったが,この組織で育った新しい松川活動家は,公正裁判を要求して松川のたたかいに広範な結集を始めた労働組合や良心的な人びとに,松川の真実を伝える核となった


広津和郎氏の松川裁判批判の克明な文章は,このように拡大された運動の中で,真実を求める人びとの教科書となった


第2段階の後半では日本教職員組合国鉄労組等の大きい組織が公正裁判の運動に参加し,総評自らも運動の中心的推進体となった. そして,自らの目と足で真実を調べようとする現地調査運動も開始された