志賀直哉「広津君の仕事」

広津君の仕事


9月に放送した梅原竜三郎との対談の時にも話したが,ああいふ問題といふものは,起つた時には誰でも熱心に書いたり,現地まで行つたりするが,そのうち水爆実験とかビキニとかいふと,またすぐそつちの方へ行つてしまふ. ジャーナリズムが新しい問題から新しい問題へ移るのは仕方がないが,評論家のさういふ態度は浮気だと思ふ. いひ出したからには,それがかたのつくまで責任を持つてやりとげなければいけない. 松川事件の被告にとつても頼りないことだらう


水爆実験も大問題だが,ひとつのことにかじりついてやることも大事だ. 広津君がそれをやつているのは気持のいいことだと思ふ. 中央公論がその広津君の仕事を快く続けて出しているのにも感心している. なかなか人も読まないだらうし,途中から読んでもわかりにくい問題なのだが,それにあれだけの紙面を割いていつまでもやりなさいといふことは商売を離れたことだ


広津君は被告たちが助かつてくれればいいとそればかり考へている. 裁判官などをやつつけたいところもあるらしいが,できるだけそれを避けている. 相手を刺戟して,その為,被告に迷惑がかからないやうに気をつけている. また政治的な問題にのめり込まないやうにも気をつけている[*1]. 政治的な要素が出てくると,政府の反共にひつかかり,公然と弾圧される場合もないとはいへないので,それをおそれている. さういふことで迷惑するのは被告だから,気をつけている. この間我々も一緒にソ連から呼ばれたが,広津君などにソ連を見てきてもらふのはいいと僕は思つたし,広津君にも多少はその気もあつたやうだが,松川事件の方で自分が赤の同調者と思はれると被告が迷惑するといふので断つた. 広津君は自分の立場をちやんと守り,さうすることが被告の迷惑にならないやう,万事に気をつけてやつている.

かういふ問題には,裁判官は自分を専門家だと思つているが,技術的にとらはれて本当の事を見落としている場合もあるのではないか. そんな時に小説家の不自然なことに対する敏感な気持は,案外裁判官の見落としている事がわかるのではないか. 小説を専門とする広津君の考へを裁判官は素直にきいてもらひたい


ゾラのドレフュース事件の真似のやうにとられるのは広津君に気の毒だ. それほど広津君は低級ではない. 広津君は正義のためになどといふふうにとられたくないと思つているやうだ


広津君は気持の温い,公平な人だ. 広津君が徹底的にやつているので,それが近頃漸く少しむくいられて来たやうだ. これをやり遂げれば広津君の立派なひとつの仕事になると思ふ



【出典】志賀直哉『全集9』岩波書店,1999/08/06 p.269-p.270 広津君の仕事


【初出】『毎日新聞』1954/12/17学芸欄

*1:「のめり」に傍点強調,下線太字強調とした